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第26話 対照実験



 図書室の一角。


 閲覧席から少し離れた奥の長机に、リリアとエリオットは向かい合っていた。


 人の少ない時間を選んでいる。


 閉館まではまだ余裕があるが、この時間帯になると、課題を終えた学生の多くは寮や食堂へ移っていく。

 図書室に残っているのは、試験前の上級生か、研究資料を抱えた学生くらいだった。


 声を荒らげなければ、簡単な魔法理論の検証くらいは許されている区画だ。


 机の上には、リリアのノート。

 エリオットの研究ノート。

 それから、氷を置くための浅い銀皿が一枚。


 皿の下には、防水用の布が敷かれている。

 図書室の机を濡らさないためだ。


 リリアはペンを持ち、観測欄をあらかじめ作っていた。


 速度。

 形状。

 透明度。

 温度。

 術者の自覚症状。

 周囲への影響。


「まずは比較だね」


 エリオットはそう言って、指先に魔力を集めた。


 最初は完全詠唱。


 静かに言葉を紡ぐ。


 低く整った声が、図書室の空気に溶けていく。

 詠唱は乱れない。

 速くはないが、安定している。


 空気中の水分が引き寄せられ、ゆっくりと球体を成していった。


 机の上、銀皿の中央に、小さな氷の球が浮かぶ

 やや時間がかかる。

 形は整っている。

 真球に近い。


 だが――。


「……白い」


 リリアが言った。

 中心部が、わずかに濁っている。


 透明ではない。

 内部に細かな曇りがあり、光を通すと白く散る。


 リリアは顔を近づけすぎないようにしながら、角度を変えて観察した。


「温度が低すぎる、というより、落とし方が急なんだと思う」


 エリオットは苦笑した。


「急激に凍らせると、結晶が均一にならない」


「完全詠唱でも、制御が難しいのですね」


「氷は見た目より面倒なんだ」


 エリオットは指先を下げる。


 氷の球は銀皿の上に静かに落ちた。


 次に、短縮詠唱。

 詠唱は短い。

 発現は速い。


 けれど、空気が集まる瞬間に、ほんのわずかな引っかかりがあった。


 球体はできる。


 だが、完全詠唱の時より輪郭が揺れていた。

 表面がなめらかに閉じきらず、わずかに歪む。

 透明度も落ちる。


 中心部の白濁が濃く、外側にも細かなひびのような筋が走っていた。


「やっぱり、乱れるね」


 エリオットは軽く息を吐いた。


「これが僕の限界」


 リリアはノートに書き込む。


 完全詠唱。

 形成速度、遅い。

 形状、真球に近い。

 透明度、やや白濁。

 術者の不調、なし。


 短縮詠唱。

 形成速度、速い。

 形状、わずかに歪みあり。

 透明度、低下。

 術者の不調、軽度。


 すべて、記録する。


 書きながら、リリアは別の氷を思い出していた。


 レオンハルトの氷。


 空気中の水分が集まるまでが速い。

 球体になるまでの迷いがない。

 表面はなめらかで、内側まで澄んでいる。


 温度はマイナス三度付近で固定。

 形状も、空間位置も、ほとんど揺れない。


 あれは、やはり異常なのだ。


「殿下の場合は?」


 エリオットが聞いた。

 リリアは顔を上げる。


「吸湿から形成までが速いです」


「真球です」


「温度はマイナス三度付近で安定しています」


「分子の揺らぎが少ない」


「透明です」


 並べるほど、差がはっきりする。


 エリオットが目を細めた。


「理想形だね」


「ええ」


 リリアはうなずく。


「ただし、発現時の歪み(ディストーション)は大きいです」


「代償がそっちに出ているわけか」


 エリオットは短く考え込んだ。


 机の上の氷が、銀皿の上でかすかに音を立てる。

 冷気が薄く広がり、紙の端をほんの少し湿らせた。


「じゃあ、本題」


 エリオットは肩の力を抜く。


「僕を対象にしてみよう」


 リリアは顔を上げた。


「距離を変えます」


「いいよ」


 エリオットはうなずく。


「無理はしない。僕の歪み(ディストーション)は軽いけど、変だと思ったらすぐに止める」


「はい」


 リリアは二メートルほど離れた位置に立った。

 机を挟み、さらに一歩下がる。

 図書室の床板が、靴の下で小さく鳴った。


 二メートル。


 レオンハルトとの検証より、少し遠い。


 リリアはペンを構え、エリオットを見る。


「始めてください」


 エリオットは短縮詠唱で氷を作る。

 発現はする。

 だが、わずかに遅れる。


 空気中の水分が集まる途中で、流れが揺れた。

 球体の輪郭も、少しだけ歪む。


 エリオットは小さく眉を寄せた。


「……来てるな」


歪み(ディストーション)ですか」


「うん。軽いけど」


「自覚症状は?」


「こめかみのあたりが、少し重い」


 リリアはすぐに書く。


 二メートル。

 短縮詠唱。

 軽度の歪み。

 自覚症状、こめかみの重さ。

 氷、輪郭の乱れあり。


「一メートルに移動します」


 リリアは一歩近づいた。


 一メートル。


 距離が縮まる。


 それだけで、机の上の空気が少し変わったように見えた。


 エリオットが息を吐く。


「あ……軽くなる」


 氷の輪郭が、ほんの少し整った。

 白濁も、さっきより薄い。


 リリアは目を細める。


「自覚症状は」


「さっきより軽い。完全には消えてないけど、邪魔は少ない」


「了解しました」


 ノートに書き込む。


 一メートル。

 症状軽減。

 氷の透明度、やや上昇。

 形状、改善。


「五十センチに移動します」


 もう一歩。


 五十センチ。


 近い。


 机の角を挟んでいるとはいえ、声を落としても十分に届く距離だった。


 エリオットがもう一度、短縮詠唱を行う。

 氷が、すっと整った。


 球体の輪郭がなめらかになる。

 中心部の濁りも薄くなり、銀皿の反射が向こう側に透けて見えた。


 エリオットは少しだけ目を見開いた。


「……ほぼない」


「歪みが消えていますか」


「消えるというより」


 少し考える。


「邪魔されなくなった感じだ」


 リリアはすぐに書き込む。


 距離一メートル、軽減。

 距離五十センチ、ほぼ消失。

 透明度、上昇。

 形状、安定。


 エリオットはその様子を見て、ふっと笑った。


「すごいね」


 リリアはペンを止めない。


「まだ非接触条件です」


「うん」


「接触条件も必要です」


 言ってから、リリアは少しだけ手を止めた。


 

ここまでお読みいただきありがとうございます。


明日以降も【毎日20時更新】予定です。


この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。

もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。

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