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第23話 図書室の考察② 基準点



 図書室の奥で、エリオットはすでに席についていた。


 昨日と同じ長机の端。

 窓に近い席で、夕方の光が机の上を薄く照らしている。


 周囲には、課題に向かう学生たちが何人かいた。

 小さな相談の声。

 紙をめくる音。

 ペン先が走る音。


 静かではあるが、完全な沈黙ではない。


 リリアはそこへ歩いていき、鞄から朝返してもらったノートを取り出した。


「お待たせしました」


「ううん。検証のあとだったんだよね」


「はい」


 リリアは椅子に座りながら、少しだけ背筋を伸ばした。


 朝、ノートは返してもらった。


 けれど、中を見られた可能性はある。


 見られて困るものは、ない。

 そう思いたい。


 ただ、記録の対象はレオンハルト第五王子殿下だ。


 距離。

 位置。

 視界。

 歪みの強度。


 書いてあるのは条件と結果だけでも、王族の状態を継続的に観測した記録であることに変わりはない。


 副学院長から頼まれたことに関する記述は、ほとんどない。


 ――ない、はず。


 けれど。


 王族を対象にしている時点で、問題になる可能性はある。


 ――不敬罪とか?!


 その言葉だけが、頭の中に浮かぶ。

 少し考える。

 もっと考える。


 ――……大丈夫、だと思う。


 理論上は問題ない。

 少なくとも、悪意はない。

 そう結論づけて、小さくうなずいた。


 エリオットはその様子を、急かさずに待っていた。


 机の上には、彼自身のノートが開かれている。

 波形の図と、短縮詠唱についての走り書きがいくつか見えた。


 リリアのノートではなく、自分の研究ノート。

 それだけで、リリアの警戒は少しだけ薄くなった。

 エリオットはペンを置き、少しだけ考えるように言った。


歪み(ディストーション)の検証って、レオンハルト第五王子殿下のためだったんだね」


 リリアの肩がわずかに揺れる。

 やはり、気づかれている。

 けれど、声に責める響きはなかった。


「……はい」


「彼、たしか上級魔法の無詠唱術者だったよね」


「そうです」


歪み(ディストーション)が周囲に影響するっていうのも、彼のことだったんだ」


 確認するような、静かな口調だった。


 エリオットの視線は、ノートではなくリリアに向いている。

 答えを急がせるでもなく、隠し事を暴こうとするでもない。


 リリアは少し迷った。


 詳しい事情は、話せない。

 副学院長の依頼であることも、自分の判断だけでは出せない。


 けれど、歪みの現象についてなら話せる。


「……はい」


 リリアはうなずいた。


「詳しい事情は、私の判断だけでは話せません」


「うん。そこは聞かないよ」


 返事は早かった。

 リリアは少しだけ目を上げる。


「僕が聞きたいのは、歪みの話だけだ」


 その言葉で、胸の奥にあった緊張が少しゆるんだ。

 この人は、踏み込む場所を分かっている。


 少なくとも、今は。


 エリオットは自分のノートの端を指先で軽く押さえた。


「僕も国王誕生の祝祭に参加していたから、実際に見たよ」


 視線を少しだけ遠くに向ける。


「あの時、彼は魔法を発動していないのに、空気が歪んでいた」


 リリアの目が上がる。


 祝祭。


 あの場にいた生徒は多い。

 けれど、あの現象を魔法理論として見ていた者がいるとは思っていなかった。


「魔法を使っていないのに歪みが発生するなら、あれは魔法由来じゃない可能性もあるよね」


 その瞬間、リリアの中で何かが切り替わる。


 警戒より先に、思考が動いた。


 魔法を使っていない。

 それでも歪む。


 ならば、術式の破綻ではない。

 詠唱の省略による波形の欠落でもない。


 本人の魔力状態。

 あるいは、感情の揺れによる外部干渉。


 可能性が、いくつも並んだ。


「でも、上級魔法を使うと確実に歪むんです」


 一気に言葉が出た。


「うん」


 エリオットはうなずく。

 その返事だけで、続きを促している。

 リリアは自分のノートを開きかけて、手を止めた。


 見せていい範囲。

 見せてはいけない範囲。


 頭の中で、ページを分ける。


 そして、鞄から空いている紙を一枚取り出した。


「具体名を避けて説明します」


「助かる」


 エリオットは少しだけ口元を緩めた。

 リリアは紙の上に、小さく円を描いた。


「ここに術者がいるとします」


 次に、その横へ小さな点を書く。


「ここに、私がいます」


「君?」


「はい」


 エリオットが目を瞬いた。

 驚きはある。

 でも、否定はない。


 それがリリアにはありがたかった。


「距離と視界の影響があります」


「何との距離?」


「私です」


 エリオットは紙に視線を落とした。


 すぐには何も言わない。


 その沈黙は、疑いではなかった。

 考えている沈黙だった。


 リリアは続ける。


「視界から外れると悪化します。距離が近いと軽減します」


「……面白いね」


 エリオットは静かに言った。


「それ、単なる魔法現象としては少し変だ」


「はい。だから検証しています」


 リリアはもう迷わず答えていた。

 この人には、理論として通じる。

 それが分かるだけで、言葉が出やすくなる。


「君が媒介になっている、ということ?」


「現時点では、そう仮定しています」


 エリオットはペンを取り、リリアの描いた円から少し離れた場所に、もう一つ小さな印をつけた。


 勝手に図を奪うのではなく、紙の端を指で示してから書き足している。

 その距離感が、自然だった。


「媒介というより、基準点かもしれないね」


「基準点?」


 リリアの目が明るくなる。


 エリオットは紙の上に、短い線を引いた。


「歪みが発生している時、彼の魔力が外へ広がっていると仮定する。その広がり方が不安定で、周囲に影響する」


「はい」


「でも、君が近くにいると軽減する。視界から外れると悪化する」


「はい」


「なら、君が何かを打ち消しているというより、彼の魔力が君を基準にして安定している可能性がある」


 リリアは息を止めた。


 打ち消す。

 中和する。

 これまでは、そう考えていた。


 でも。


 基準にして安定する。

 その言い方は、少し違う。


「つまり、私は歪みを消しているのではなく、発生源の揺れを整えている可能性がある、ということですか」


「可能性の一つだけどね」


 エリオットは穏やかに言った。


「ただ、その場合、魔道具で完全に代替するのはかなり難しくなる」


 リリアの指先が止まる。

 代替。

 その言葉だけが、少し遅れて胸に届いた。


「……難しい、ですか」


「うん。減衰はできても、同じ基準点を作るのは難しいと思う」


 エリオットはリリアを見る。


「君自身が、条件になっているなら」


 図書室の奥で、紙をめくる音がした。

 遠くの席で、誰かが小さく咳をする。


 リリアはその音を聞きながら、手元の図を見つめた。


 自分が条件。

 自分が基準点。


 必要とされることと、道具で代えられないことは、同じではない。


 同じではないはずなのに。


 昨日、浴室で考えたことが、ふっと戻ってくる。


 ――私は、いらなくなる?


 その問いに、別の答えが重なりかける。

 でも、まだ言葉にはならなかった。


「……検証項目を増やします」


 リリアは小さく言った。

 エリオットが微笑む。


「そう言うと思った」


「まず、基準点仮説と中和仮説を分けます。距離、視界、接触、術式種別、発動前後の状態変化。それから、感情変動の有無も」


「感情変動まで見るの?」


「必要なら」


「彼に怒られない?」


 リリアは少し考えた。


「……怒られるかもしれません」


「そこは否定しないんだ」


「でも、必要です」


 真顔だった。

 エリオットは小さく笑う。


「君は本当に研究者向きだね」


「まだ学生です」


「今はね」


 その言い方は、からかいではなかった。

 未来の可能性を、少しだけ先に置くような声だった。


 リリアは返事に困って、ノートへ視線を落とした。



 少し離れた場所で、クラリスはそのやり取りを見ていた。

 本棚の影に立ったまま、視線だけを向ける。

 会話の内容は、ほとんど分からないけど、難しい話をしているのは分かる。


 でも。


 ――近い。


 距離の話ではない。

 空気の話だ。


 エリオットは自然に話している。

 リリアも、いつも通りだ。


 なのに。


 ――なんか、違う。


 クラリスは少しだけ眉を寄せた。

 昨日とは違う方向で、胸の奥がざわついた。


 ――殿下、これ見たらどうなるのよ。

 

  


 

ここまでお読みいただきありがとうございます。


明日以降も【毎日20時更新】予定です。


この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。

もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。

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