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第20話 触れてないのに


 リリアの目がまた明るくなる。


「個別最適……」


 ノートへ書き込もうとした、そのとき。


「こいつに近づくな」


 後ろから声が落ちた。

 低く、硬い声だった。


 リリアが振り向くより先に、手首を掴まれる。


「殿下?」


「来い」


 そのまま引かれる。


「あ、ちょっと――」


 机の上のノートが開いたままになる。


 波形を描いたページの上で、ペンがころりと転がった。

 インクの先が、まだ乾ききっていない線の端をわずかに滲ませる。


 リリアが振り返ろうとした、その前に。


 レオンハルトが空いている手で、椅子の背にかけてあった鞄を掴んだ。

 そのまま持ち上げる。


「待ってください、ノートが」


「いいから来い」


 言い切って、歩き出す。


 リリアは迷ってから、引かれるままに立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る音が、図書室の静けさに少しだけ大きく響く。

 近くの机にいた学生が顔を上げ、司書が遠くからこちらを見た。


 開いたままのノートへ、エリオットが静かに手を伸ばす。


「預かっておくよ」


 リリアに届いたかどうか分からない声で、そう言った。


「まだ――まだ話の途中です」


「後だ」


 図書室の空気が、背後へ流れていく。


 紙の匂い。

 古い本の匂い。

 低く重なっていた囁き声。


 その全部が、扉を越える前から遠くなる。


 周囲の視線が集まった。

 リリアは半歩遅れながら、廊下へ引き出される。


 二人は廊下を、まっすぐ進む。


 窓は高く、細長い。

 石の柱で区切られた連続窓が、規則正しく並んでいる。


 夕の光が低く差し込み、床に長い帯を落としていた。


 金に近い橙の光。

 窓枠の影と交互に、明るい筋が並ぶ。

 その間を、二人は横切っていく。


 リリアは半歩遅れたまま、引かれて進む。

 早いリズムの靴音が、やけに大きく響いた。


 すれ違う生徒たちが、思わず足を止める。

 振り返る。

 ひそひそと声が落ちる。

 視線が集まる。


 けれど、レオンハルトは一度も振り向かない。

 ただ前だけを見る。

 掴んだ手も、離さない。


 差し込む光が、二人のあいだに細く入り込んだ。

 指と指の隙間を、すり抜ける。


 その光が、リリアの手首に落ちる。

 掴まれている場所だけが、やけにはっきりして見えた。


「殿下っ、歩くのが速いです」


 返事はない。


 リリアは足をもつれさせないよう、少しだけ歩幅を広げる。

 けれど、追いつけない。


 手首にかかる力だけが、先へ先へと急いでいた。


「それに、……痛いです」


 その瞬間、手が離れた。

 触れていた熱が、急に消える。

 廊下の角を曲がった先で、レオンハルトはようやく足を止めた。

 それでも、すぐには振り返らなかった。


 窓の外では、夕の光が中庭の芝を斜めに照らしている。

 遠くで、部活動へ向かう生徒たちの声が小さく聞こえた。


 この場所だけ、音が薄い。


「……悪かった」


 低い声だった。

 リリアは手首を押さえたまま、まっすぐ見る。


「今のは強引です」


「分かってる」


「話の途中でした。エリオット先輩にも失礼です」


 レオンハルトは黙った。


 さっきまで前へ進んでいた肩が、ほんの少しだけ硬く見える。

 言い返す言葉を持っているのに、出さないようにも見えた。


「それに」


 リリアは少し息を吸う。


 廊下の光が、足元に細い線を作っている。

 その線の上に、二人の影が並んだ。


「私にも、近くに座る人を選ぶ権利があります」


 その言葉だけ、はっきり刺さった。

 レオンハルトの表情が止まる。


「……分かってる」


「本当に分かっていますか?」


「分かってる」


 短く返してから、少しだけ視線を逸らす。

 窓の外へ逃げた視線は、すぐには戻らなかった。


「でも、嫌だった」


 リリアは目を瞬く。


「嫌?」


「ああ」


 言葉は、そこで切れた。


 廊下の向こうで、誰かの笑い声がした。

 明るい声だった。

 けれど、ここまでは届ききらず、石壁に吸われるように薄くなる。


「……そんな、子どもみたいな」


「子どもじゃない」


「うちの弟たちでも、私の都合は聞いてくれます」


「俺と弟を比べるな」


「比べているつもりはありません」


 リリアは真面目に答えた。


「ただ、聞いてくれる、という点では――」


「……違う」


 レオンハルトが遮る。


 言葉だけが先に出て、続きが追いつかないようだった。


「俺は」


 そこで言葉が止まった。

 リリアは待つ。


「はい」


 レオンハルトの指が、わずかに動く。


 掴んでいた手はもう離れている。

 なのに、まだ何かを握りしめているように、指先だけが固まっていた。


「……いや」


 レオンハルトは小さく息を吐く。


「なんでもない」



 少し離れた柱の陰で、クラリスは完全に固まっていた。

 片手で口元を押さえ、もう片方の手でルーカスの袖を掴んでいる。


 柱の影は濃く、二人の姿を隠していた。

 けれど、隠れている本人たちの表情までは隠しきれていない。


(そこは言いなさいよ、殿下!)


 声には出さない。

 出したら終わる。

 隣のルーカスも、珍しく黙っていた。

 いや、黙ってはいるが、肩が少し震えている。


『……笑ってる場合?』


 クラリスが唇だけで言う。


『いや』


 ルーカスも唇だけで返す。


『これは、見守るべき案件だ』


『覗き見』


『護衛だ』


『便利な言葉ね』


 二人は柱の陰から、そっと顔を出した。



 リリアは少し考え、それから納得したように頷いた。

 

「謝っていただいたので、今回は許します」


「……は?」


「私、弟たちを叱る時間は三分以内と決めています」


 レオンハルトが目を瞬く。


「それより長いと集中が切れて、内容が伝わらなくなるので」


 真剣だった。

 廊下の夕光の中で、リリアだけが完全に平常運転だった。


「エビデンスもあります」


 沈黙。


 柱の陰で、ルーカスの肩が揺れた。

 クラリスが無言でその袖を引っ張る。

 笑うな、という意味だった。


 リリアは顔を上げる。


「……では」


 真面目な顔で言う。


「もうしないって、約束してくださいね」


 にこ、と笑った。


 廊下の光が、リリアの横顔にかかる。

 淡い金色の線が、頬と睫毛の先に乗った。


 触れていない。

 手も、腕も、さっき離れたままだ。


 それなのに、レオンハルトは一瞬で距離が近づいた気がした。


「……ああ」


 短く答えるのが精一杯だった。

 ほんの少し、廊下の音が遠くなる。

 レオンハルトは視線を逸らしたまま、手に持っていた鞄を差し出す。


「……ほら」


 ぶっきらぼうだった。

 リリアは素直に受け取る。


「ありがとうございます」


 何も考えずに言った声は、いつも通りだった。

 レオンハルトは一瞬だけ言葉に詰まる。


 それから、小さく息を吐いた。


「……送る」


 ぽつりと落ちた声は、短かった。


 リリアはきょとんとする。


「え?」


「寮まで」


 視線は合わせないまま言う。


「危ないからな」


 理由を、余分に足す。

 リリアは少し考えてから、うなずいた。


「はい、お願いします」


 あっさりと受け入れた。

 レオンハルトは答えず、先に歩き出した。

 

 今度は、隣を。


 夕の光の帯を、二人分の影が並んで越えていった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


明日以降も【毎日20時更新】予定です。


この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。

もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。

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