第16話 社交界のルール
――とある昼休み 食堂――
「ごめん、やっぱりちょっと行ってくる」
クラリスが立ち上がる。
「今日のラズベリーのムース、絶対に食べたいの。すぐ戻るわ」
「はい」
リリアは素直にうなずいた。
その少し前に、レオンハルトは教師に呼ばれて席を外していた。
ルーカスも当然のようについて行っている。
四人掛けの席に、一人だけ残る。
そこで、影が差した。
リリアは顔を上げる。
逆光の中に、立っている人影がある。
一歩、光の外へ出る。
――イザベラ・グランヴェル。
柔らかなピンクブロンドの髪は、毛先だけをゆるく巻いている。
上半分を後ろでまとめたハーフアップ。
留められた髪飾りは、光を受けて小さく瞬く宝石だった。
瞳は、はっきりとした青。
やわらかな微笑みを浮かべているのに、視線だけが冷たい。
可憐さと気品を、作り慣れている顔立ち。
その後ろには、同じように整えられた令嬢たちが数人控えている。
「少し、よろしくて?」
イザベラが口を開いた。
声は穏やかだった。
だが、断れる空気ではない。
リリアは小さく瞬く。
「……はい」
イザベラは席にはつかない。
その場で話すつもりなのだと分かった。
近くの席の会話が、少しずつ止まる。
聞こえないふりをして、誰もが耳を傾けていた。
「レオンハルト殿下と、ルーカス・ベルナール公子とご一緒されている姿を、よくお見かけしますけれど」
イザベラが穏やかに言う。
声は大きくない。
それでも、周囲に届くには十分だった。
「王都の礼儀に疎いままでは、今後どこかで恥をかくかもしれませんもの。ですから、今のうちにお教えした方が親切かと思いましたの」
扇で口元を隠す。
「勘違いなさらないで」
イザベラが続ける。
「王族と直接言葉を交わせるのは、学院という場だからですわ」
周囲がしんとする。
「学生のうちは、その距離が一時的に許されることもあります」
扇の先が、わずかにリリアを指す。
「だからといって、履き違えてよい理由にはなりません」
「そうですわ。学院の中だけの話でしょう?」
取り巻きの一人がすぐに続けた。
「あなたは地方の、それも男爵家のご令嬢」
別の一人が言う。
「社交界にもまだ出ていない方ですわ」
イザベラはゆっくりと目を細めた。
「後ろ盾となる高位貴族との縁もない」
言葉を置く。
「本来なら、殿下の隣に立つ資格を問われるのは、最低でも伯爵家、侯爵家の方々からですわ」
「身分は飾りではありません」
別の令嬢が言う。
「誰が誰の後ろに立つか、誰が誰の隣に出るか――それだけで、家の意志と釣り合いが示されるのです」
「殿下に軽く話しかけてよいのは、学院のうちだけですわよ」
「卒業したあとも同じように振る舞えると思っているなら、危ういわ」
「今は許されていることと、許される立場であることは違うの」
ざわ、と空気が揺れる。
それは、ただの侮辱ではなかった。
社交界のルールだった。
だからこそ、重かった。
「なるほど」
リリアは素直にうなずいた。
「たしかに、そうですね」
イザベラの目がわずかに細くなる。
受け入れた、と思ったのだろう。
けれど、リリアはそのまま続けた。
「ですが、今は検証の途中ですので、やめるわけにはいきません」
「……検証?」
取り巻きの一人が声を上げる。
「はい。歪みの発生と中和に関する検証です」
リリアはきょとんとしたまま言った。
「歪みの取り除き方が分かれば、殿下も皆さんと同じように学院生活を送れるようになります」
食堂の空気が、少し変わる。
「殿下は体の不調があって、そのうえ影響が広がらないように人と距離を取っています」
少しだけ首を振る。
「そんなの、間違っていますよね」
食堂がしんとした。
リリアはそこで、ほんの少しだけ息を吸った。
「私は――」
「そこまでだ」
その声で、場の空気が変わった。
誰もが振り向く。
レオンハルトが立っていた。
リリアとイザベラの間に入るように、静かに歩いてくる。
その背が、リリアの前を遮った。
守っている。
そう分かる位置だった。
「エルドナーに近づくな」
声は荒くない。
けれど、食堂のざわめきが消えた。
イザベラが扇を止める。
「殿下、わたくしは――」
「分かっている」
レオンハルトは短く言った。
「社交の話だろう」
イザベラの唇が止まる。
「だが、ここは学院だ」
レオンハルトは彼女から目を逸らさない。
「私が誰と話すか、誰の隣に座るか」
一度だけ、リリアの方へ視線を落とす。
すぐに戻した。
「それを、君が決めるのか」
「……いいえ」
「なら、終わりだ」
静かに言い切る。
「エルドナーは、私が呼んだ」
食堂がさらに静まった。
「私の隣にいる理由がある」
その言葉は短い。
けれど、十分だった。
イザベラの後ろにいた令嬢たちが、わずかに身じろぎする。
レオンハルトは続けた。
「それと、イザベラ・グランヴェル公女」
名を呼ぶ声だけが、少し低くなる。
「大勢の前で一人を囲むのは、礼儀なのか」
イザベラの表情が固まった。
「……そのようなつもりでは」
「そう見えた」
それ以上、言い訳を許さない声だった。
レオンハルトはわずかに目を細める。
「私は、そういう礼儀は好きではない」
短い沈黙。
レオンハルトの言葉が落ちたあと、リリアは小さく首をかしげた。
「でも、殿下。イザベラ様のおっしゃることは正論ですよ」
食堂がまた静まる。
「エルドナーは、騎士が爵位を得て興った歴史の浅い家です。家格を問われれば、なす術がありません」
淡々とした声だった。
リリアは傷ついていないわけではない。
ただ、それを感情ではなく、構造として受け取っていた。
「王都の社交界の礼儀、大変勉強になりました」
そこで、リリアはイザベラへ向き直る。
「ありがとうございました。イザベラ様」
周囲がぽかんとする。
イザベラも一瞬だけ言葉を失った。
けれど、すぐに表情を戻す。
「殊勝なご判断ですわ、エルドナー嬢」
扇を閉じる。
「私はこの辺で失礼します」
視線だけで取り巻きを促した。
「皆さま、参りましょう」
イザベラたちが去ったあと、デザートをトレーに載せたクラリスが、ぽかんと口を開けた。
「……あれ?」
リリアも目を瞬く。
クラリスはレオンハルトを見たまま言う。
「殿下、意外に饒舌ね」
ルーカスが小さく笑う。
「王族だからな」
軽い口調だったが、その目は少しだけ静かだった。
「子どもの頃から、大人の悪意に囲まれて育ってる」
肩をすくめる。
「舌戦くらい、自然と身につくよ」
クラリスは少しだけ黙った。
さっきまでの軽口が、引っ込む。
「……そういうものなのね」
「そういうものだ」
ルーカスは短く答えた
その横で、レオンハルトはもう何も言わない。
ただ、リリアの方を向いた。
「戻るぞ」
短く言って、そのままリリアの手を取る。
「え」
引かれる。
リリアは反応が遅れて、半歩ほど引きずられた。
「殿下、あの、ムースが」
小さく言ったが、レオンハルトは止まらない。
振り返りもしない。
「ちょっと、待って」
クラリスが声をかける。
手にはラズベリーのムース。
「これ、どうするのよ! リリアの分!」
返事はない。
二人はそのまま食堂を出ていった。
少しの間。
ルーカスが肩をすくめた。
「じゃ、俺が食べるよ」
「食べるな」
クラリスが即座に言った。
「もう」
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明日以降も【毎日20時更新】予定です。
この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。
もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。




