第12話 前向きな異常
翌日。
放課後のカフェテラスは、まだ明るさを残していた。
中庭に面した席には柔らかな風が通り、ガラスの卓に置かれたグラスやカップが、光を受けて静かに揺れている。
クラリスの前には、鮮やかな赤のイチゴジュース。
表面には細かな泡が残り、グラスの縁には冷たい水滴がついていた。
ルーカスはクリームソーダ。
淡い緑の液体の上に、丸く乗ったアイスがゆっくりと溶けていく。
炭酸の泡が底から立ち上がり、絶えず弾けていた。
レオンハルトの前には、黒いコーヒー。
湯気はほとんど立たないが、表面はわずかに揺れている。
リリアの湯のみからは、ほうじ茶の香りが静かに上がっていた。
細い湯気が、風にほどける。
「発表します」
リリアはノートを開いた。
「殿下の歪みを中和する条件の検証です」
続けて、別のページをめくる。
「そのための検証手順を考えてきました」
ルーカスは椅子の背にもたれ、両手を頭の後ろで組んだ。
「……真面目か」
クラリスは足を組み、イチゴジュースをストローで軽く混ぜる。
「真面目なのよ」
即答だった。
レオンハルトは何も言わない。
涼しい顔で、リリアの隣に座っている。
距離は近い。
昨日と同じように、絶妙な位置だ。
リリアは気にせず、ノートを指で押さえた。
「まず、前提として」
淡々と話を始める。
「距離五十センチを基準に、位置条件と感覚条件を確認します」
「位置条件?」
クラリスが首をかしげる。
グラスの表面についた水滴が、指先に触れて冷たそうだった。
「はい。隣、正面、後方です」
「後ろ?」
クラリスの眉が上がる。
「第一段階として、視界の有無が影響する可能性を検証します」
ルーカスが笑った。
「ほんとに研究だな」
リリアは気にしない。
「殿下、周囲に影響が少なく、状態を目で確認できる上級魔法は使えますか」
レオンハルトは少しだけ視線を落とした。
「指定はあるか」
「そうですね……何か用意しておくべきでした」
「これならどうだ」
レオンハルトが手のひらを上に向ける。
一瞬で、五センチほどの透明な氷の真球が浮かんだ。
クラリスが前のめりになる。
「綺麗。……さらっとやってるけど、それ上級より上じゃない?」
ルーカスも身を乗り出して、氷を覗き込んだ。
「詠唱なしで、さらっとできちゃうんだよな」
リリアの目が輝く。
「素晴らしいです。可視化として完璧です」
すぐにノートへ書き込む。
「では、以後は五センチ真球、マイナス三度固定を基準にしましょう」
「あなたもなかなか鬼ね」
クラリスが呆れたように言う。
「問題ない」
レオンハルトは短く答えた。
涼しい顔のまま、指先ひとつ動かさない。
ルーカスが笑う。
「問題ないんだ」
「では、確認します」
リリアはノートに視線を落とした。
「現状確認。隣接配置において、真球の固定は維持されています」
隣に座ったまま、レオンハルトを見る。
呼吸は安定。
顔色も悪くない。
赤い瞳は深く、静かに揺れている。
「基準条件では、体調に問題はありませんか」
「ああ」
リリアは書き留める。
「では、明日から一項目ずつ、検証を進めていきましょう」
「え? 正面とか後ろとか、今やればいいじゃないか」
ルーカスが腕を下ろし、テーブルに肘をついた。
「魔法の連続使用で条件に影響が出れば、正確な検証は行えません。ですから、一日一項目だけです」
「……真面目か」
「だから、真面目なのよ」
ルーカスとクラリスが同時にため息をつく。
そのやり取りの終わりで、レオンハルトは少しだけ笑った。
翌日、放課後の階段教室で、正面配置の検証を行った。
リリアがレオンハルトの正面に座る。
一つ席を離して、ルーカスとクラリスが見守っていた。
レオンハルトが手のひらを上に向ける。
一瞬で、透明な氷の真球が現れた。
「なんか、昨日より早い?」
クラリスが小声で言う。
机に両手をつき、身を乗り出している。
「昨日より、透明じゃないか?」
ルーカスも目を細めた。
リリアはノートに視線を落としたまま言う。
「誤差範囲でしょう」
さらさらと書きつける。
「殿下、気分は?」
レオンハルトは一度だけリリアを見た。
赤い瞳が、ほんのわずかに深く揺れる。
それから視線を外した。
「……問題ない」
リリアは頷き、記録する。
観測。
・正面配置:安定
・形状維持:良好
・生成速度、透明度ともに基準値内
三日目。
同じく放課後。
平床教室での検証。
ルーカスとクラリスは、一つ席を空けて見守っている。
リリアはレオンハルトの後ろに座った。
距離は変わらず、約五十センチ。
「始めてください」
レオンハルトは無言で従う。
手のひらを上に向ける。
一瞬で、氷の真球が現れた。
昨日と同じ、はずだった。
ほんのわずかに、生成が速い。
ぴきっ。
小さな音がした。
表面に細い亀裂が走る。
その一点から、氷が押し出されるように、一本の棘が生えた。
「……あ」
クラリスが口元を押さえる。
さらに。
ぴきっ。
二本目。
真球だった形が、静かに崩れ始める。
「う……」
クラリスが顔をしかめ、椅子の背に手をかけた。
「なんか、馬車で酔ったときみたい……」
「……うん、来たな」
ルーカスが低く言う。
軽く眉を寄せ、すぐに立てるよう椅子を少し引いた。
リリアは氷を見ていた。
棘状変形。
形状維持の崩壊。
周囲への影響あり。
そこで、視線をクラリスとルーカスへ向ける。
「クラリス、症状は」
「気持ち悪い。吐くほどじゃないけど、視界が少し揺れる」
「ルーカスは」
「軽い頭痛。あと、耳の奥が変な感じだな」
リリアは素早くノートに書き込んだ。
・周囲への影響:クラリス/軽度の吐き気、視界の揺れ
・周囲への影響:ルーカス/軽度の頭痛、耳奥の違和感
そこまで記録したところで、ようやくレオンハルトの異変に気づいた。
レオンハルトは何も言わなかった。
ただ、こめかみに手を当てている。
呼吸がわずかに浅い。
赤い瞳の奥が、濁るように揺れていた。
「殿下」
リリアはすぐに立ち上がり、横へ回り込んだ。
椅子の脚が小さく床を鳴らす。
レオンハルトが手を下ろす。
氷は解除され、消えた。
リリアは、レオンハルトの顔を確認する。
「歪み、出たんですか?」
「リリア、なんともないの?」
クラリスが驚いたように言う。
「無いです」
そこで、リリアは自分の体調を確認した。
頭痛もない。
吐き気もない。
視界の揺れもない。
「何も、ありません」
ルーカスが短く息を吐く。
「やっぱりか」
レオンハルトはリリアを見た。
ほんの数秒前まであった苦痛は、もう消えている。
「治った」
「……治ったな」
ルーカスも小さく言う。
レオンハルトは短く頷いた。
リリアはすぐにノートを開き、追記する。
・後方配置:不安定
・形状維持:崩壊。棘状変形あり。
・周囲への影響:あり
・クラリス:軽度の吐き気、視界の揺れ
・ルーカス:軽度の頭痛、耳奥の違和感
・リリアへの影響:なし
・横移動後:殿下の症状、即時回復
・氷解除後:周囲への不快感も軽減
ペンが止まる。
「……なるほど」
リリアは顔を上げた。
「視界条件が影響している可能性がありますね」
目が、少しだけ輝いている。
「検証の有用性が見えました。良い結果です。明日からは、条件を細分化していきましょう」
「どこが良い結果なのよー」
クラリスが即座に返す。
「ほんと、前向きな異常だな」
ルーカスが苦笑する。
レオンハルトは、何も言わない。
ただ、また小さく笑った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
明日以降も【毎日20時更新】予定です。
この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。
もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。




