36 ジルトレ・リアトリスという執事
それから少し経って、父がセントポーリア公爵に俺に家庭教師を付けて欲しいという嘆願書を出し、結果パトリック先生が来てくれた、と説明された。
「セントポーリア公爵…、セルジュ様は素晴らしい方だ。あの方に頼まれたんだ、なんとしても出来るようになってもらうぞ」
それから、父からはいずれセントポーリア家に行くようにと。
「こんな弱小爵位持ちからの手紙を読んでいただいた上にパトリック先生にまで話を付けてもらった。娘であるユーメリー様の執事も今後必要になるだろう。俺の分まで、恩を返してきてくれ」
期待に応えるように教わったことは余すことなく吸収した。
2年が経った頃には、パトリック先生からも及第点を貰っていた。
生涯の恩師だったし、一番尊敬していた。兄も周りの人達も、前とは見違えるようだと感嘆の声を上げていた。
事実、前とは違う確かな自信を持っていたし以前のような根拠のない漠然としたものではなく、己の実力を正しく評価できるようになった。
けれど父からだけはいつまでも認められなかった。
「ジル。お前は賢い。昔よりずっと賢くなった。だがパトリック先生以外にはまだ仮面を被っているままだ。相手にとって最良の行動を、賢い故に見抜いてしまっている。いい加減その癖を治したらどうだ。…お前を放っておいた俺が、言えることではないんだが」
「その様に振る舞っているつもりはありません。そう見えますか」
「いいや、俺以外は気付かないだろう。これでも父親だからな…そのくらい分かるさ。セントポーリア公爵家に行くのは半年後に迫っているが、癖が抜けていないままで行かせてもいいのかと心配なんだ」
「パトリック先生にも、ほぼ全てで及第点を貰えましたしやっていける自信はあります」
「…そうか。無理はするな」
2ヶ月後、パトリック先生はご自宅へと帰られた。心を入れ替えた14歳のあの日から、ずっとセントポーリア家へ報いたいと思っていた。
恩師と引き合わせてくれたお礼をずっとしたかった。
17年間住んだ家を出て行くより、パトリック先生と別れる時の方が辛かったな、なんて思いながらセントポーリア家への馬車に乗り込んだ。
だから。
「ユーメリー・セントポーリアですわ」
「ジルトレ・リアトリスと申します。ジル、とお呼びください、お嬢様」
齢7つの主は、じっと私の目を見つめていた。にこりと微笑んでみたものの視線は変わらず、何かを読み取るように、こちらが吸い込まれてしまいそうになるほどの黒い瞳が動くことはなかった。
利発そうな方だ。これからこの方を、どう導いて行こう。
そう考えるだけで胸が躍った。パトリック先生の気持ちが少し分かったような気がして、また嬉しくなった。
「じゃあジルに私のお気に入りの場所を案内するわ。こっちに来て!」
「え、お嬢様?」
やはりまだ7つの幼い方のようだ。あの瞳だけは何か引っかかったが、ずんずんと前を歩いている様子は行動に迷いがない。
しかしお気に入りの場所、というくらいだ。そこを案内してくれるのであれば、初対面としてはまずまずの好感度を得られたのだろう。
微笑みさえ忘れなければ御し易い方かもしれない。
「ふっふっふ…」
「どうされました?」
「あ、ちょっと屈んでちょうだい。そう、そこそこ。てえい!」
過去の自分の反省点を挙げるとするならば、油断していた。この一言に尽きる。
蠢くいもむしを見て、これはなんだ。いもむし。なぜいもむし?お気に入りの場所とは?場所ではなくこのいもむし自体がお気に入り?だとしたら本気でよかれと思って差し出してーーー
「………」
「………」
いない。口角が意地の悪い角度で上がっているんだ、絶対に嫌がらせだ。なんだ?なぜ嫌がらせをする?まさか蛙か?蛙みたいだったからいもむしを好きだとでも、食うとでも思っているのか!?
「あれ…驚かないのね…」
「ええ、私の家はしがない兼業農家の準男爵家ですからね、この程度の虫は平気なんですよ。それよりも…分かりますよね。どんな神経してたら10個上の男をビビらせようとするんですか正気ですか。一度頭の方をお医者様に見てもらった方がいいくらいの神経をしていますね。それとも今から連れて行って開頭手術でもやってもらった方がいいんじゃないですか?もういっそ50年前に禁止されたロボトミー手術でもしてみますか?多少はその神経も直るってもんですよね?血液全部交換とかしてみますか?ていうかあれですか?毎日毎日豪華なご飯ばかり食べてるんで脳みそまで豪華な花でも咲き乱れているんですかあなたの頭は。ぜひ見てみたいものですね、やっぱりお医者様のところへ行きますかその脳みそかっぴらいてどうなってるか見に行きますかそうしますかさあ行きましょう」
「ああああああやめてえええええええ」
冷静に考えれば、少し前までパトリック先生に蛙と呼ばれていたなんてメリー様は知っているわけもないのに。
パトリック先生に認めてもらえたこと、待ち望んでいた公爵家へ来れたこと、かなり意気込んでいたこと、期待していたこと。
少し気負いすぎていたから意外なことをされて、激情してしまったのかもしれない。
「ねえジル」
「はい」
「ここの人たちはとっても優しいよね」
「そうですね」
「あんなに私に強く言ってきた人はジルだけよ」
「私は仮にも家庭教師ですからね。間違っていれば正しますよ」
「うん。でもジルなら怒ってくれそうだからやったの。ほかの人にはあんないたずらやったことないわ」
「……」
「ジルみたいなお兄様が欲しかったかも」
「…もったいないお言葉です」
兄…。つまり、甘えてくれた結果の行動であったのだろうか。
思えば、誰かに甘えてばかりの人生だった。誰かに頼られるのはこんなにも、居心地よく嬉しいものか。
主の手は小さくて、これから私が守り、身を守る術を教えていかねばならない義務感に駆られた。
無知とは罪だ。主に罪を犯させるわけにはいかない。
けれど、初日に感じた違和感はともに過ごす日々を重ねるほどに明確に、無視できないほどに大きくなっていった。
文字の読み書き程度なら、7歳で理解している子供も多いのであまり気にはならなかった。
飲み込みが異常に早いのも、自分もそうだったからと納得した。
でもどこかおかしい。
「ねえ、解き方は合っているのよね?」
「はい。途中の式で間違っているだけです」
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「ええ、ありがとう。ジル、こっちは合ってる?」
「使用する公式が違っていますね」
「…直すわ。…あ、ねえ?昨日お母様がウバの紅茶を美味しいと言っていたから、ミルクティーで飲みたいの。申し訳ないけれど、ミルクを入れて持ってきてもらえる?」
「かしこまりました」
茶器とともに部屋へ入ってきたメイドは、紅茶を入れている途中でまた片付けて静かにドアから去っていった。最近入ったばかりの女の子で、緊張していたのか声が少々震えていた。
「メリー様、ウバの紅茶は苦手では?」
「そのままだと少し苦手ね。ミルクを入れたら美味しくなるのかしら、と思って」
授業が終わり自分の部屋へと戻る道中、扉の開いた物置から漏れていた声を拾った。
「今日初めてお嬢様にお茶出したんでしょ?大丈夫だった?」
「それがもう!ギリギリだったの!確認を忘れてお部屋に入ってから器を見たら、もう茶葉が無くなっていて…どーしよーって思ったんだけど別の紅茶が飲みたいってお嬢様が言うから戻って普通に出せたの…」
「運が良かったわね…」
「冷や冷やしたから、今度からちゃんと確認してからお部屋に入らなきゃ」
あの時のメリー様は、自分と会話していて部屋に入ってきた時しかメイドは見ていないはず。
視界の隅には捉えていたかもしれないが、一瞬の焦りを見抜けるか?7歳の女の子が。
たとえ苦手な紅茶でも基本的には出されたものに文句も言わないし、替えてくれともこれまで言ったことはない。持ってきてもらったウバのミルクティーも結局、やっぱり苦手だわと苦笑いしながら飲み干していた。
またある時は、花壇の土替えをしている使用人が誤ってドレスに土を付けてしまった際に、面白そうだと土替えを手伝い始め、自分でよりドレスを汚して奥様に怒られていたり。
はたまた、メイド同士が不仲になった時もあったが、それぞれのメイドにメリー様がわがままを言って困らせていた。結果、2人はメリー様という主の苦労をしている同士となり仲は改善された。メリー様もメイド達にわがままを言うことはなくなった。
これは果たして偶然か?
たまたまそこに居合わせたから知っているだけのものでもあといくつかある。
常にメリー様と共にいるから気付けたのだ。自分以外であれば分からないだろう。
勉学のみで見れば、頭の出来はさして特別珍しいわけでもない。
しかし人の機微において、大人でもそつなく対応出来るものはかなり少ない。
子供ではほぼ不可能だ。なぜならば、機微を察する能力に加えて相手へ気取らせることなく物事を運ぶには人生経験が必要だからだ。
ただ笑顔で、使用人の失敗を許せばそれでいい。それだけでもよく出来た主だ。
だがあの方は、全て偶然を装って対処している。
だから使用人もメリー様に感謝することも、申し訳なく思うことすらしていない。助けられたとすら思っていない。
子供の皮を被ったナニか。
結論は、それしか出なかった。
同時に湧き上がるこの気持ちはなんだろう。興味?好奇心?探究心?または、恋心?
強いて言うならば、執着。
これからこの方はどう生きていくのだろう。どんな経験を積み、なんて考えて行動するのだろう。
気になる。とても気になった。執事という立場で良かった。たとえ嫁入りしたとしても付いて行けるから。
もう、離れられない。拒否されようが嫌われようが、気持ちを抑えられる自信は全く無い。
ああ、申し訳ありません…メリー様。
あなたを知れなくなると思うだけで、心が壊れそうになるのです。恋心なんて可愛い名前ではない、激しい…劣情にも似たこの感情を持ち続けながらあなたの隣に居る私を、お許しください。
どうか、どうか。私が意地でもあなたから離れないことを、その広いお心で…どうぞお許しください。
「メリー様、いつまでも茹で上げられたカエルのようなお顔をなさらないでください」
「だから!どこが!カエルよ!!」
「ジ…ジルトレさん、そのくらいで…」
“私はあなたと共に。"リアトリスの花"に誓いましょう“




