35 ジルトレ・リアトリスという執事
それからの日々は、まるでハリケーンに巻き込まれたアリのような気分だった。
「まずわしのことはパトリック先生と。常に敬語を使い、指先一つまで神経を研ぎ澄まし所作に気を付けろ。…何?もう文句か。文句一つ言うたび、3日間外出禁止だ」
「ふむ、正解だ。…こんな基本中の基本を出来たくらいで得意げでいてどうする、なら右手の定義を言ってみろ。そうだお前のその右手だ。………答えられもせずに秀才とは、片腹痛い」
「まだ軟禁23日目だろう。ケロケロと喚くな、蛙か」
「なんだその腕の運ばせ方は!その顔もなっとらん!相手を立てることもせず主役のような顔でいるなど言語道断。エスコートとは案内すればいいだけなのではない!」
「背筋を曲げるな、まるで蛙に見える」
「フォークを持つのは初めてか?蛙から人に化けたばかりだろうからな、気にするな。わしが教えてやる」
「なんだこの経済学レポートは?全く題に沿っていない。機会的費用の点を一切考慮しておらんじゃないか。蛙には経済とは無縁とでも言っているかのようだ」
「女に会いたい?はっはっは!気にするな、お前なんぞいなくとも別の男が慰めてやっている。自分が遊んでいると思ってるようだが遊ばれているだけだ」
「おたまじゃくしから蛙になれたくらいで」
「蛙にも種類があってなあ」
「その声はヒキガエルか?」
「それはツチガエルの顔真似か?」
「存在はアマガエルより下だな」
「蛙にはまだ早かったな」
「蛙風情が」
「蛙か?」
「蛙!」
「知り合い?」
「え?…んーん、知らない人ぉ」
もうやだ。心折れる。
隙を見て家から逃げ出して、一番懇意にしていた女性の所に癒されに行ったら知らない男と腕を組んで、俺を知らないと言ってきた。
毎日蛙、蛙って言いやがって。俺のどこが蛙だよ。顔だっていいし、ダメ出ししかされないけどマナーも所作も他の奴より絶対に上手いのに。
回らない思考で、フラフラ歩いていたつもりだったが見慣れた道に入っていた。
うちの家の畑だ。何人かが野菜を収穫しているところを見て、ここにきたのはいつぶりだろうとぼんやり思う。
「ジルか?」
覚えのある声に振り向くと、こちらもいつぶりだろうと思うほど会っていない兄が目に入る。
「兄さん…」
「ず、随分と顔色悪いなぁ…ジルがそんな顔してるのは初めて見たよ」
心配性で、お人好しの兄は確かにいい人だったけどあまり頭は良いとはいえず、自然と会話も減った。
「パトリック先生だろう?よほどジルに期待してるんだな」
「はあ!?あれのどこが…」
「はは!あの世代の人たちは可愛い奴がいると厳しくしちゃうんだよ」
「…兄さん、パトリック先生に会ったことある?」
「すごく優しい人だった。俺、挨拶で失敗したのに、怒りもせずここを伸ばせばもっと良く見えるぞって言われたし」
そんな馬鹿な。挨拶を失敗した兄がそれで、完璧にやった自分があれなんて。
初日に置き忘れていた怒りが湧き上がってきて、ふつふつ煮たっていたのがぐつぐつ大きく心を揺らした。
「…俺、帰る」
「頑張れよー」
もう限界だ、もう無理だ。我慢ならないし、今までなんで我慢してきたかも分からない。
我慢する必要もないことに気付いた。散々言いやがって、お返ししてやるよ。
自宅に入り、先生を探しているときに父の書斎から声が聞こえた。
多分、父親と先生が会話してる。どうせ逃げ出した俺の悪口とか、蛙とか好き放題言っているんだろう。
確かめるようにドアにそっと耳を置いて、盗み聞きした。
「…まだあの馬鹿は戻っていないようで…本当に申し訳が」
「いいんだ、いいんだ。ここで逃げ出したなら、蛙のままいることを望むんだろう」
「その、…蛙、というのはなぜなのか聞いてもよろしいですかな」
「ああ蛙。そうだな、不思議だろう。蛙というのは、わしの子供時代のあだ名だよ」
「あだ名?」
「生まれつき左足がうまく動かせんでな。右足で飛ぶように歩く姿を、蛙、蛙と馬鹿にされておったのだよ」
「パトリック先生が、ですか」
「そうだとも。笑われるたび、親は満足に産んでやれなくてと悲しそうな顔をしてな、泣くほど悔しかった。だがわしの姉だけは、悔しいなら蛙から人間になってみろと泣くだけだったわしにマナーを教えてくれたのさ」
「今のお姿からは想像も付きませんな」
「そう見えるよう、文字通り血反吐を吐いて努力したのだ。勉学は得意だったからまだ良かったが、姉はマナーについて特に厳しくてなあ…何度尻を叩かれたか。懐かしい…。…話が逸れてしまったな。蛙と言われているやつでも、わし程度の人間にはいつでもなれるという意味だ」
「パトリック先生ほどの人はなかなかいないと思いますがね。もしジルがパトリック先生にも劣らぬ人になれたなら感動して泣いてしまいそうです」
「何を言う、わし以上の素質を持っているのだぞ?そしてアレは、まさに蛙だ。出来るからと放置されていて多少捻くれてはいるがな。人間になれば見違えるほど素晴らしい者になるよ、わしなんぞよりな。…いい息子を持ったな」
「……目をかけて下さって、感謝のしようがありません。ジルも、いつかそれに気付いてくれれば…」
「気付かずともいいさ。老人の自己満足だ。しかし生涯最後に、磨けばどこまでも輝く原石の生徒を持てたことはこれ以上なく誇りだ。天国にいる妻へのいい話土産になる…」
そこまで聞いて、父の書斎からは離れた。
やることを思い出したんだ。
「………む?いつから戻っていた」
「パトリック先生」
いつも教えてもらう部屋で、レポートを書いていた手を止めて立ち上がり、先生と向き合った。
「教えを乞うている途中で、投げ出してしまい申し訳ありませんでした。愚鈍者ですが、今後もご教授頂けないでしょうか」
初めて、自分から頭を下げた。ただ下げただけだ。深く、心から願うように。
「…わしは投げ出したつもりはないからな、これからもやるつもりだとも。蛙!宿題は終わっているか?」
「はい、パトリック先生」
父親は母が死んでから常に仕事だったし、たまに会ってもお前は問題ないだろう?としか言わなかった。兄も父に付いて行こうと家に帰ってからも勉強していて、自分に聞きに来ることもあった。ジルみたいな弟がいて自慢だと、いつも笑っていた。
学校は、他との差は1週間で出てきた。初めは凄い凄いと褒めていた周りも、次第にどうせすぐ出来る様になってしまうんだろう?なんて視線が、教師からもいくつも降ってきた。
生まれて初めてだった。こんなに、自分に期待してくれる人は。
どうせこいつなら出来る、とは言わず全く出来ていないと。赤子に言葉を教えるように、何度も、何度も、何度も。答えだけじゃない、解答へ導く思考の方法を、覚えるまで教えてくれた。
兄さん。兄さんの言った通りだったよ。先生にとって俺はとんでもなく可愛い奴で、それ以上に期待してくれていたみたいだ。
「出来ているな。よくやった。どうやら問題が簡単すぎたようだな?蛙にも解けぬものを明日は用意しておこう」
蛙という一つの単語に、あなたはどれだけ想いを込めて言ってくれていたんだろう。
「全部解いてみせますよ。パトリック先生」
先生、ありがとう。俺、きっと人間になってみせるから。




