第6話 イリスの後悔
……あんなこと、言うつもりはなかったのに。
割れた黒真珠のような空を背に、私はまるで逃げるように泳いでいた。
行き先は決めていない。
分かっていることは、あの子から離れようとしていること。
そしてそれは――私のこの行動は、間違っているということ。
でも、仕方ないじゃない。
どんな顔であの子に接すればいいのか、全然分からないんだもの。
私は初めて、アトリを叱った。
初めて……ではないかもしれないけど、あんなに大きな声を出したのは今回が初めてだった。
いつもなら「ほら、ダメでしょ」だとか、「ちゃんと戻してきなさい」といった感じで注意するだけ。
自分でも甘いな、とは思っているけれど、他の家みたいにきつく叱るなんて私にはできなかった。
そんな私だから、さっき叱ったときは胸がひどく痛くなった。
何より自分の声に驚いたし、あの子に嫌われるのではないかと思うと――
「嫌われたく、ないなぁ……」
私に託された、唯一の家族。
いつも笑顔をくれて、幸せな気持ちで包んでくれる、守らなきゃいけない妹。
今すぐにでも家に帰って抱きしめたいけど、そんな勇気は私の小さなカバンの中には入っていない。
「はああぁぁ、ううぅぅ」
「……そこにいるのは、イリスか?」
不意に背後から声を掛けられ、盛大に溜息を吐いていた私は「きゃぅ」と情けない声を漏らしながら飛び上がった。
相手に届かんばかりの音を立てている胸を押さえ、二度三度と深呼吸をする。
この柔らかな落ち着いた男性の声には、聞き覚えがあった。
「……ノッツさん? こんなところで何をしているんですか?」
「朝の見回りだよ。それが僕の仕事だからね」
騎士団の制服に身を包んだ、細身の青年――ノッツが岩陰から姿を現した。
砂色のくせ毛を、いつものように後ろで縛っている。
「イリスの方こそ、こんな早くに何をしていたんだい? 学び舎に行くには、まだ早すぎると思うんだけど」
空の明るさを確認したノッツが、不思議そうに私のカバンへと目を向けた。
見られて困るものは入っていないのに、なぜか隠したくなってしまう。
ノッツとは、私が今のアトリくらいだったときからの知り合いだ。
数年前に成人したノッツは仕事で毎日忙しくしている。
会う機会は減る一方だけれど、会えば毎度こうして話しかけてくれていた。
……まぁ、不意打ちはやめてほしかったけどね。
「えっと……、昨日早く帰った分、今日は早めに行こうかなぁ……なんて」
「イリスは相変わらず真面目だな」
ノッツは近くの岩に腰掛け、柔らかい草の生えたところを示しながら「イリスも座りなよ」と、爽やかな笑顔を向けてきた。
「……お勤めの最中じゃないんですか?」
「これも立派なお勤めの一つだよ」
なんとなく話し相手がほしかった私は、そのお誘いに乗ることにした。
夜明け前の肌寒い風が、少しだけ和らいだ気がする。
「妹さんと何かあった?」
「……えっ!? なんで――じゃなくて、違いますよ!」
いきなりの言葉に、ぼんやりとしていた私は慌てふためいてしまった。
これじゃあ、「はい、そうです」と言っているようなものだ。
どう言い繕うか必死に悩む私に、ノッツから笑いを含んだ声が掛けられた。
「僕でよかったら、話聞くよ。話せば少しは楽になるかもしれないし」
……はぁ、調子狂うなぁ。
ノッツといると、いつもこんな感じで心を見透かされてしまう。
年が近くて会う機会が多かったからだと思うけど、たまに読心術でも習得しているんじゃないかと疑いたくなるときがある。
横目でノッツの方を窺ってみれば、さあ話してごらん、と言わんばかりの顔で、私の方を見ていた。
……そういう態度を取られると、話しにくくなるんだけど。
とはいえ、話さないとノッツに心配を掛けることになるだろうし、きっと私の心も落ち着かないまま。
手元で草をいじっていた私は、ようやく「実は、ですね」と重い口を開けた。
「アトリを、強く叱っちゃって……」
「イリスが? 珍しいね」
「強く言うつもりはなかったんです。でも危ないことばかりするから、つい……」
アトリの沈んだ、悲しそうな顔が瞼の裏に蘇る。
その姿を思い出すだけで、なぜか叱った側なのにつらくなってしまう。
「妹さん、今回は何をしたの? 余程のことだとは思うけど」
そう言われてみて、私は初めて気づいた。
いつものアトリに比べたら、危ないことなんて全然していないと。
寝具から落ちて頭をぶつけそうになった。
たったそれだけのことに、どうしてあれほど怒ってしまったのか。
……でも、本当に危ないって、あのときは思って……。
「……口に出せないくらい、危険なことだったのか?」
私が考えに耽ってしまったせいで、ノッツに誤解させてしまったらしい。
深刻そうな表情で、声を低く潜めて聞いてきた。
周囲が急に冷えた気がして、私は慌てて「ち、違いますよ!」と手を振った。
「寝具から落ちて、頭を打ちそうになったんです」
「……それだけ?」
「……それだけです」
私が頷いてみせると、ノッツは眉間の皺を深めてしまった。
「他に何か、イリスを怒らせるようなことをしたんじゃないのか?」
「いえ、今日のアトリはいつもより大人しいくらいで……」
……あ、そうだ。このことを先に言っておかないと。
――アトリの様子がいつもと違っていたことを。
「あの、実はアトリのことで相談があるんですけど」
「仲直りの方法がわからないとか?」
「そ、それについては後で教えて――じゃなくって!」
更なる問題発生にたじろいでしまった私は、誤魔化すように軽く咳をしてから口を開いた。
「アトリがおかしくなったんです」
「おかしくなった? どんな具合に?」
「例えばなんですけど……」
そう前置きしてから、私は特に症状がひどいものを挙げていった。
泳げなくなったこと。
高いところが怖いと言い出したこと。
貝を食べようとしなくなったこと。
「それは……かなりひどいな」
どれ一つ欠けても、海で生きる私たち『セリューカ』にとっては致命的。
それが全てアトリの身に起きている。
予想以上の事態に、ノッツは腕を組んだまま黙り込んでしまった。
「何か、治す方法ありませんか?」
騎士団の一員として、怪我や病気への知識があるノッツなら、何か知っているかもしれない。
そう思って聞いてみたけれど、ノッツは曖昧に首を振った。
「泳げなくなったというのは、どの程度まで?」
「もう、全然泳げないんです。泳ぎ方を忘れたんじゃないかってほどで……」
「……怖いと言い出したのは、どのくらいの高さだ?」
「うーん。あの岩の真ん中あたりの高さで、怖がり始めていたと思います」
「……貝を食べようとしないというのは?」
「……その、吐いちゃったんです。食べやすいアマアマ貝だったんですけど」
少し詳しく説明してみても、ノッツの眉間の皺は深まる一方。
私の心も膨れ上がった不安で押し潰されそうだった。
さっきまでアトリを叱った後悔で悩んでいたのに、いつの間にかアトリの体調についての悩みに変わってしまっている。
それくらいに、私は心の底からアトリを大切にしていた。
だから何としてでも、アトリの身に起きた異変を解決したい。
……だって私は、お姉ちゃんなんだから。
「……期待の目をされてるところ申し訳ないけど、僕も分かりそうにない」
「そ、そうですか……」
「でも、騎士団の中には医療に詳しい人もいるから、その人に聞いてみるよ」
だからもう少し当時の様子を聞かせてほしい、と言われた。
その人に会えない私に代わって、ノッツがアトリの様子を伝えてくれるらしい。
願ってもないことだから、私はすぐに頷いた。
「数日前の様子も聞かせてもらえるかな? 何か手掛かりがあるかもしれない」
「わかりました」
すでに日付が変わっているから、アトリに異変が起きたのは昨日になる。
……そういえば、三日前にも変なことがあったような。
「三日前くらいからでいいですか?」
「ああ、助かるよ」
ふと、ノッツが服の内側から小さな白い水晶を取り出した。
見るのは初めてだけど、私はこれが何かすぐに分かった。
「これ、『海映しの白水晶』ですよね?」
「そう。声を後で再生できるようにすれば、報告が楽になるからね」
私の前に浮かべられた白水晶が仄かに光り始めた。
これで準備が整ったらしい。
「緊張しなくてもいい。僕に話すときと同じ感じでいいから」
「べ、別に緊張してないですよ」
ふう、と息を整え、私は記憶を遡りながらゆっくりと語り始めた。
「では……三日前のことから、話しますね」




