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第5話 お姉ちゃん

 天井に漂う灯りをぼんやりと眺めていると、ズズッと重い振動が空気を――水中を伝わってきました。

 布製のハンモックから身を起こし、音のした玄関の方へと声を掛けます。


「お、おかえりなさい……その、ごめんなさい」


 苦手な貝を口にしたわたしが何を仕出かして、イリスが何をする羽目になったのかはご想像にお任せしますが――後ろめたいやら情けないやらで、わたしは深く頭を垂れました。


「もういいって。それより、具合はどう?」

「たぶんもう、へいき」


 胸の辺りにまだふわふわとした不快感が残っていましたが、なんとか笑ってみせます。

 そんなわたしの額に冷たい手が当てられ、途端にイリスの表情が陰りました。


「ア~ト~リ~? 我慢してるでしょ。まだ顔色悪いし、ちょっと熱も出てるよ」

「う……」


 図星を指され思わず目を逸らすと、「相変わらず頑固なんだから」と溜息交じりに言われ、額を指で軽く押されました。


 この体に慣れていないわたしは、何の抵抗もできずにそのままハンモックへと再び沈んでいきます。


 ……あれ? 確か、さっき『相変わらず』って言いましたよね。


 ということは、アトリは頑固な子だった、ということでしょうか。


 これっぽっちも自分を頑固だと思ったことはないのですが、どうやらわたしの言動の中に、アトリに通ずるところがあったようです。


 そのことがどうしても気になってしまい、ゆりかごのように揺れるハンモックの中から声を掛けます。


「ねえ、イリス。わたしって、がんこ?」

「どうしたの、急に……あ、また名前で呼んだね? 私のことはお姉――」

「どういうとこが、がんこなの?」


 身を乗り出して、鏡の前で髪を梳かしているイリスに再び尋ねます。


 わたしの声に一瞬手を止めたイリスでしたが、何事もなかったかのようにまた髪を梳かし始めてしまいました。


 口を固く結び――たまにちらちらと視線を送ってくる様子から、何をお望みなのかはだいたい見当がつきます。


 ……まったく、頑固なのはどっちですか。


 と、ツッコミたい気持ちをそっと抑え、できるだけ可愛らしくお望みの言葉を口にします。

 語尾にハートマークがつきそうな、甘ったるい声が出ました。


「……おしえて、おねえちゃん」


 ……あ、これ、思っていたより恥ずかしいですね。


 もう言うのは止めようかな、と思ったわたしでしたが、イリスの反応を見てその考えを改めました。

 予想以上に効果覿面だったのです。


 手に持っていた櫛を宙に放り出し、服に顔を埋めて「わー!」とか「きゃー!」といった意味のない声を上げ始めたのです。


 せっかく梳かしていたアッシュブロンドのふわふわとした長い髪は、残念なことに振り回されてクシャクシャになっています。

 銀の魚の脚は犬のしっぽのように左右に揺れていました。


「あ、あの、イリス……?」


 壁に当たった櫛がふわりと落ちるのを視界の端に捉え、イリスの豹変ぶりに思わず頬が引きつります。


「ね、アトリ! もう一回、もう一回お姉ちゃんって呼んで!」

「……おしえてくれたら、いいよ」

「えっと、頑固なところ、だったかな?」


 部屋の中央に置かれたクッションに勢いよく座り、エメラルドの瞳をキラキラと輝かせながら「どのお話がいいかな」と体を左右に振っています。


 どうやら、その度に髪が更にクシャクシャになっていることには気づいていないようです。


 ……せっかくですし、イリスの髪を梳かしてあげましょうか。


 わたしは自分の三つ編みに手を触れながら、イリスが結ってくれたときのことを思い出します。

 手先が不器用なわたしでも、三つ編みくらいならできそうです。


 ふっと湧いて出た自信に後押しされ、わたしはハンモックから身を乗り出し、床に落ちた櫛を取ろうと手を伸ばします。


「ちょっとまって」

「どうしたの、アトリ? あ、そんな降り方したら!」

「えっ……ひゃっ!」


 バランスを崩したわたしは、顔面から宙へと投げ出されました。


 わたしでも恐怖を感じる余地のないほどの高さでしたが、そこから頭を下に落ちるともなれば話は別です。


 水の底へと沈んでいく遅さ。迫る白くきらめく床。

 そう、前回は砂地でしたが、今回は硬い貝殻なのです。


 既視感のある光景と先の読める展開に、背筋を冷たいものが伝っていきます。


「大丈夫!? 怪我はない?」

「……あ、ありがと」


 けれど、今回はイリスがいました。

 鼻先が床に触れる直前で、無事救出されたのです。


 少し遅れてわたしの顔の横に青銀の三つ編みが垂れてきました。


 ……さすがに肝が冷えました。



「どうしてそんな危ないことするの!」


 逆さになった視界が元に戻ると、いつになく真剣な顔つきをしたイリスが目の前にいました。

 エメラルドの瞳が射るように真っすぐわたしを見つめています。


 けれど、その長い睫毛は小刻みに震えていました。


 ……ああ、またやらかしてしまいました。


 イリスとのやり取りに夢中になって、自分が泳げないということを失念していました。ここは地上ではなく水中で、いつもと勝手が違うということも。


 ……人魚になっても、結局わたしはわたしのままですね……。


 お母様に怒られたように、この世界でもイリスに怒られる宿命のようです。

 どこにいっても、怒られてばかりですね。


「……ごめんなさい」

「謝ってほしいんじゃないの。何をしようとしたの?」


 感情を押し殺したような声で、イリスは目を逸らさずに問いました。


 わたしは力の抜けた右腕を上げ、床に転がっている櫛を指差します。

 すっかり萎縮してしまい、なかなか言葉が出てきません。


「その……、イリスのかみ……」

「私の髪?……あ」


 不思議そうな顔でイリスは自分の髪に触れ、やっとクシャクシャになっていることに気付いたようです。


 櫛とわたしを交互に見た後、「ふぅ」と息を震わせました。


「どうして……」


 俯いたイリスの顔は、前髪に隠れて見えません。

 呟くような細い声だけが、かろうじて聞こえてきました。


「どうしてアトリは、無茶ばっかりするの……?」


 それは、イリスの心からの声のようでした。

 まるで時間が凍ってしまったかのように、気まずい沈黙が続きます。


「わ、わたしは……」

「私の身にもなってよ……」

「…………」

「どれだけ心配させれば気が済むの……?」


 ゆっくりと顔を上げたイリスの目は、怒りとも悲しみとも分からない感情に潤んでいました。


 やがて、波が防波堤を越えるように、堪え切れなくなった涙が一滴。

 目元から離れたガラス玉のような涙はその場に留まり、エメラルド色を映して寂し気に光りました。


 わたしはただ、イリスに喜んでほしかった、それだけなのです。

 でも、そのことを告げても更に怒らせるだけだと気づきました。


 お母様がそうでしたから。


 ……わたしは結局、誰も喜ばせることなんてできないのですね。


 心に大きな穴が開いてしまったようです。

 久しぶりに感じた幸せが、黒々とした穴へ次々と流れ落ちていきます。


 ――幸せな記憶がすべて色褪せたら、この世界は何色に見えるのでしょうか。


「私、もう行かなくちゃ。お話はまた今度ね」

「……え、いくってどこに?」


 突然出かける準備を始めたイリスに、わたしは声を掛けます。

 けれど、わたしの声が聞こえなかったのかイリスは何も返事をしてくれません。


 手際よく肩掛けカバンのようなものに何かを次々と詰め込み、素早く乱れた髪を整えていきます。


 忙しなく泳ぐイリスの姿が、水槽の中で逃げる魚のように見えました。


「ま、まって――」


 静止の声が届く間もなくズズッと重い音が響き、扉の向こうにイリスの銀の尾ヒレは消えてしまいました。


 いつの間にか伸ばしていた左手をそっと降ろします。


「……え?」


 開いた口から、勝手に声が漏れました。

 けれど、その声が誰かに届くことはありません。


 静寂が、とても痛い。


 ……なんで?


 鼓動が、うるさい。


 ……見捨てられた?


 独りが、怖い。


 急速に温もりを失っていく独りぼっちの家で、わたしは身震いをしました。


 天井に漂う灯りが揺れ、不気味な影を落とします。

 岩の隙間を通り抜ける海流が、胸を掻き毟りたくなる不快な音を立てます。


 ……もう、こんなところにいたくない。


 楽しいと感じ始めていたこの世界は、やはり苦痛でしかなかった。

 受け入れつつあったこの人魚の体も、冷静に見れば違和感しか抱けない。

 そして、あれだけ愛してくれたイリスにも愛想をつかされた。


 これだけ理由が揃っていれば、もうこんなところにいる必要はないでしょう。


 輝きを失っていたわたしの瞳に、別の輝きが生じました。

 燻っていた感情が、洗い流されたようにさっぱりなくなっています。


「…………」


 覚悟ができた――いえ、諦めがついたと言った方がいいでしょう。


『わたしは――』


 まるでわたしを誘うように、扉の隙間からは黒い海が覗いていました。



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