第4話 人魚の衣食住
「アトリ、おうちが見えてきたよ」
「ん……」
どうやら考え事をしているうちに、寝落ちしかけていたようです。
頭上から掛けられたイリスの声に、わたしは重い瞼を開けます。
随分と深いところまで来たようです。
海面が遥か遠くに見え、月明かりが届きにくいのか周囲が薄暗くなっています。
目を凝らしていると、前方に薄っすらと大きな影が見えてきました。
……アレが、おうち?
近づくにつれてその影の輪郭がはっきりとし――その異様さにわたしは目を見張りました。
塔のように突き出た岩と岩の間に、巨大な巻貝が挟まっていたのです。
「おうち開けてくるから、少し待っててね」
イリスは近くの手頃な岩の上にわたしを乗せると、銀の尾ヒレと白のワンピースを揺らし、真上へと泳ぎ出しました。
その姿を目で追い――向かう先にある巨大な巻貝に、自然と目が留まりました。
サザエに近い見た目をしていますが、大型のトラックかクレーンを使わないと運び出せないような大きさです。
あんなにも大きな貝が、この世界には存在しているということでしょうか。
貝の家は、何本もある角のような突起を両側の岩に突き立て、海底から十メートル程の高さに鎮座しています。
巻貝の蓋を外したイリスがこちらに手を振っているのが見えました。
ここまでおいで、と声が聞こえた気がしましたが、それは無理なお願いです。
高さにして約十メートル。高所が苦手な上、泳ぐことさえできないわたしでは、あの家まで辿り着けません。
嫌という意思を伝えるためブンブンと首を横に振ると、渋々といった様子でイリスが降りてきてくれました。
「ここもダメなの?」
「う、うん……」
申し訳なさでしょんぼりしていると、「しょうがないなぁ」という声と共に体が宙に浮きました。
海底が見る見るうちに離れていき、落ちないように慌ててイリスの体にしがみつきます。
ギュッと目を瞑り震えているこの時間が、とても長く感じられました。
「アトリ、目開けて大丈夫だよ」
ポンと頭に手を置かれる感触とイリスの柔らかな声に、恐る恐る目を開けます。
そして、目に飛び込んできたのは――
……ヒトデ?
視界を覆い尽くすような、巨大な青いヒトデでした。
なぜかそのヒトデでイリスが顔を隠しています。
八本の青い足の隙間から、ニマニマとした口元が覗いていました。
「…………なにしてるの?」
「えっ、驚いてくれないの? せっかく拾ってきたのに、残念」
と、特に残念とは思っていないような口調で、わざとらしく口を尖らせました。
その様子が可愛らしくて、つい笑みが零れます。
わたしのことを元気づけようとしてくれたのでしょう。
帰りの道中、イリスはずっとわたしの体調を気に掛けていました。
普段のアトリよりも、元気がないように見えたのかもしれません。
「しっかりしなきゃ……」
ヒトデを海へ帰しに行ったイリスの姿を思い出しながら、わたしは気を引き締めました。
これからわたしは、秘密を抱えて生きなければならないのです。
その秘密がイリスに気付かれてしまうことだけは避けなくてはなりません。
秘密というのは、わたしがアトリになってしまったということ。
イリスの知るアトリは、もういないということです。
アトリの記憶こそありますが、やはりわたしとアトリは全くの別人です。
わたしは人間で、アトリは人魚なのですから。
ここまでの道中、わたしが人魚になってしまった原因を考えていました。
転生、憑依、入れ替わり……
前世の人間の記憶を思い出した、なんてこともあるかもしれません。
思いついたのは、どれもファンタジー小説などの設定でよく見かけるものです。
そのうちのどれかが我が身に起きたということなのでしょう。
……厄介なことになりましたね。
どのみち、昨日までのアトリと今のアトリは、中身が違っているのです。
このことをイリスに知られたら、きっとひどく悲しませることになります。
アトリを返してと、言われるかもしれません。
喪失感から泣き出すかもしれません。
わたしは、笑顔に溢れた彼女から、幸せを奪いたくないのです。
だから、イリスに心配を掛けないように、不信感を抱かせないように。
わたしは、アトリを演じると密かに決意したのです。
*
「おまたせー。ごはんの前に着替えちゃおっか」
間もなくして帰ってきたイリスは、家の玄関の扉を閉めるように、巻貝の蓋をズズッと閉じました。
直径がイリスの背丈と同じくらいある、大きな円盤状の蓋です。
蓋の大きさから分かるように、この貝殻の家は人魚二人で暮らすには広すぎるほどでした。
中がくり抜かれ一つの大部屋となっているのも、広く感じる一因でしょう。
天井を見上げれば、一匹のクラゲのような生き物がほわほわと漂いながら、白い仄かな光を放っています。
人魚は夜目が効くのか、その僅かな灯りでも不自由を感じませんでした。
「ほら、アトリ。早くおいで」
物珍しさに辺りを見回しているうちに、壁際に置かれた二枚貝の収納箱から、イリスが一枚の服を取り出していました。
床に転がっていたわたしは、ツルツルとした床を這うようにしてイリスのもとへ急ぎます。
「あはは。アトリ、何その動き方」
人魚らしくないというのは自分でもよく理解しています。
けれど仕方ないじゃないですか。
泳げないわたしには、これしか移動手段がないのです。
恥ずかしくてそっぽを向くと、頬をツンと突かれました。
……完全にからかわれていますね。
「はい、じゃあこっちの手上げて」
着替え自体は、イリスが手伝ってくれた――というより、ほとんどイリス任せにしたため、あっという間に終わりました。
さっきまで着ていた民族衣装のような服とは違い、今はイリスとおそろいの白いワンピースです。
さらさらとした手触りで、所々に青色の刺繍が施されています。
……貝殻で隠すだけの服じゃなくて本当に良かったです。
「アトリ、なんか嬉しそうだね」
「え、そう?」
不意にそのようなことを言われ、わたしは首を傾げました。
ちゃんとした服を着れたことで、安堵が顔に出ていたのかもしれません。
「ほら、ちゃんと前向いて。髪やってあげるから」
軽く頭を押さえられ、じっとしていると、わたしの正面に円いお盆のようなものが置かれました。
水中で静止するように、支えもなくその場に浮いています。
その中から、一人の幼い女の子がこちらを見つめていました。
驚きに大きく見開かれているその瞳は、大海を思わせる澄んだ青色。
お人形さんのように可愛らしく整った顔立ちですが、惜しいことに口元が少し緩んでいます。
しばらくして、その女の子は口が開いていることに気付き、誤魔化すように手で隠しました。
恥ずかしかったのか、真珠の肌が少し赤らんでいます。
結い上げられていた髪が、ふわりと降りてきました。
人魚の脚よりも青っぽい銀色。
ブルーシルバーと言うべきでしょうか。
目に掛かった前髪を横に流したところで、背後から声が掛けられました。
「はい、終わったよ。どこか気になるとこあった?」
最後にもう一度、鏡に映る女の子へと目を向けます。
三つ編みにされた長い青銀の髪に優しく手を触れ、どこか切ない笑みを浮かべていました。
……これが、わたし。アトリの姿なのですね。
鏡の中のわたしに向かって、精一杯の笑顔を作ってみせます。
この笑顔がそろって、いつものアトリが完成するのです。
……あなたの身体、お借りしますね。
「ううん、だいじょうぶ。ありがと」
「ふふ、どういたしまして」
少しは元気出てきたかな、と心配性のイリスの呟きが聞こえます。
イリスは櫛や鏡を片付けると、壁に掛けられていた網から手のひらサイズの貝をいくつか取り出しました。
部屋の中央に置いてあるクッションに腰掛け、おいでと手招いています。
「ごはんにしよっか。お腹空いてるでしょ?」
「……ごはん?」
クッションの弾力を確かめていたわたしの手に、二つの貝が握らされました。
岩ガキに似た見た目で、すでに殻を割られ、身が剥き出しになっています。
……これが、人魚のごはん? な、生ガキ?
ちらりと横へ視線を向ければ、爪楊枝のようなものを使って生ガキを美味しそうに食べているイリスが。
……か、カキですか。どうしましょう……。
実はわたし、カキが大の苦手なのです。
いえ、カキに限らず、貝類全般が苦手で食べられません。
味も触感も臭いも、全てが嫌いなのです。
アレを美味しいと言う人たちとは、永遠に分かり合えないと思っています。
それに、生ガキはあたる、とよく聞きます。
あたったらどうしようという恐怖から、爪楊枝を持った右手が動きません。
「アトリ、どうしたの? 食欲ない?」
「そ、そんなことないよ」
イリスに心配を掛けてはいけない。不信感を抱かせてはいけない。
そのことを思い出し、わたしは覚悟を決めてカキを口へと運びます。
「んぐ……、う、ぐぅ」
独特の臭いと触感に、体の奥から不快感が――
「えっ? あ、アトリ!?」
……ああ、やってしまいました。
込み上げる不快感に耐え切れず、わたしは呆気なく醜態を晒したのでした。
夜の海にイリスの悲鳴が響いたのは言うまでもありません。




