第3話 人魚と人間のわたし
「じゃあ、おうち帰ろっか」
人魚の少女――イリスは明るい声でそう言うと、宙へと泳ぎ出して見せました。
高く上げた両手を円を描くように降ろし、少し体が浮き上がったところで尾ヒレを使い、砂地を蹴るようにしてさらに高く浮き上がる――
それは一切の無駄も感じられない、洗練されたとても美しい所作でした。
イリスはふわふわとしたアッシュブロンドの髪を波に遊ばせながら、わたしの頭上を優雅に泳いでいます。
海面から差し込む、スポットライトのような月明かりの中で泳ぐその姿に、思わず感嘆の息が漏れました。
……わたしにも、できるでしょうか?
自分が人魚であると認めたあの瞬間、わたしの頭の中に不思議な記憶が流れ込んできました。
断片的なものばかりでしたが、それは間違いなく、わたしが人魚として過ごしていたときの記憶だったのです。
その記憶の中には、今わたしの頭上を泳いでいる人魚の少女の姿もありました。
少女の名前はイリス。記憶の中のわたしが「ねぇね」だとか「リィス~」と呼んでいることから、恐らくイリスはわたしの姉でしょう。
ちなみにわたしの名前は、アトリというらしいです。
いつの間にか聞き馴染んでしまっていることに、もう驚きはありません。
そんなイリスとわたしはよく一緒に、泳ぎに出かけていました。
人の生活でいうところの、散歩のようなものでしょう。
泳いで近所のサンゴ礁を見に行ったり、きれいな貝を拾ったりするのです。
この記憶が正しければ、かつてのわたしは泳げていたのです。
自分はカナヅチだと思っていましたが、人魚となった今なら泳げる気がします。
……えっと、確か手をこうして……。あ、あれ?
「アトリ、どうしたの?」
「え、えっと……」
不思議そうに首を傾げるイリスの視線の先には、両腕を広げたまま海底にへばりついた、一人の幼い人魚。
つまり、泳げずにその場で倒れたわたしがいました。
人魚になっても、カナヅチは治らなかったようです。
いえ、カナヅチになってしまった、の方が正しいでしょうか。
「あー、疲れちゃったのね」
泳げない、とは言い出せずに口籠っているわたしを見て、イリスはわたしが疲労で動けないのだと判断したようです。
イリスはふわりと泳ぎ寄ると、慣れた手つきでわたしを抱き上げました。
「あ、ありがと」
「今日はやけに素直ね?」
からかうような、それでいてどこか嬉しそうな微笑みは、年相応の少女のような可愛らしいものでした。
人魚も人間も、あまり違いはないのかもしれません。
未知の世界への不安を拭えないわたしでしたが、イリスの無邪気な笑顔を見て、心に少し明るさが戻ってきました。
間もなくして、わたしの体は宙へと浮きました。
イリスがわたしを抱えたまま泳ぎ出したのです。
白い砂を巻き上げる海底が、少しずつ離れていきます。
「ひぃっ」
おもむろに、わたしはイリスの腕を掴みました。
掴むその手はぷるぷると小刻みに震えています。
「…………」
「アトリ?」
海底が遠退き、古民家サイズの大岩よりも高い位置を泳ぎ始めた頃、震えは全身まで広がっていました。
奥歯がカチカチと鳴り、心臓がドクドクと音を立てます。
どこか遠くの方で「痛い、痛い」と声が聞こえた気がしましたが、それを気に掛けている余裕など、そのときのわたしにはありませんでした。
呼吸が乱れ始めたところで、わたしの異常を感じ取ったイリスが海底へと降ろしてくれました。
「アトリ、やっぱり具合悪い?」
「ち、ちがうの……、その……」
何と言えばいいのかと、わたしは視線をさまよわせます。
「えっと……たかいとこ、こわいの」
「高いとこ? そんな上で泳いでいたかな」
イリスは今し方泳いできた方へと振り返り、コテリと首を傾げました。
「いつもと同じくらいだと思うよ」
「そうだよね、うん……」
わたしの――人魚のアトリとしての記憶を探れば、イリスの言葉が正しいことはわかります。
けれど、わたしの人間の部分が、それを許容できずにいました。
何を隠そう、わたしは極度の高所恐怖症。
文字通り、地に足つけていないと不安で仕方ないのです。
水中にいる、水を纏っているという感覚がないため、泳いでいる間は常に宙吊りにされている気分でした。
命綱がイリスの細腕ともなれば、その恐怖は推して知るべし。
「遅くなっちゃうけど、下の方泳いでいこっか」
下の方……、水深の深いところのことでしょうか。
「いいの?」
「だって怖いんでしょ」
まったく手が掛かるんだから、と口を尖らせながらも、イリスの横顔はどこか嬉しそうに見えます。
迷惑ばかり掛けている自信しかないのですが、イリスにとっては捉え方が違うのでしょうか。
お母様の「我儘を言うものではありません」と言う声が、どこか遠くの方から聞こえた気がしました。
「もしかして、イリスって『マゾ』?」
「ん、アトリどうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
「あ、私のことイリスって言ったよね。お姉ちゃんって呼ばなきゃダメだよ」
そんなことを話しながら、わたしとイリスは再び夜の海へと繰り出しました。
当然、わたしは宙吊り状態ですけれど。
手を伸ばせば転がっている貝を拾えそうな程、海底近くをゆっくりと泳いでくれています。そのおかげで、高さに対する恐怖心はだいぶ薄れました。
砂地で休んでいた小魚が、わたしたちの影に驚いて逃げていきます。
「アトリ、怖くない?」
「うん、だいじょうぶだよ」
頭上から聞こえる声に、努めて明るく返事をします。
わたしの様子に安心したのか、イリスは満足そうな笑顔を返してくれました。
……こんなにも笑顔を向けられたのは、本当に久しぶりです。
昔はよく笑っていたお母様も、ある日を境に笑顔を見せなくなりました。
遠い記憶にあるその笑顔をもう一度見たくて、幼き頃のわたしはお母様を笑顔にしようと色々なことをしてみました。
けれど、不器用で要領の悪いわたしはその度に失敗し、叱られていたのです。
一度だけ、お母様がわたしに笑顔を見せたときがあります。
それはわたしが学校のテストで一位を取ったときでした。
懐かしい笑顔で「よく頑張りましたね」と褒めてくれたのです。
そしてわたしは気づきました。こうすれば、お母様を笑顔にできるのだと。
それからというもの、わたしは何事にも精一杯の努力を重ねてきました。
学業も、苦手だった運動も、やったことのないピアノも。
……結局、どれも上手くいきませんでしたけど。
あの日以来、お母様を笑顔にすることはできていません。
これからその夢が叶うことも、もうないでしょう。
「アトリ、聞いてる?」
「……え、なに?」
少しぼうっとしていたようです。
心配そうに揺れるエメラルドの瞳がこちらを覗き込んでいます。
「今日はやっぱり早めに休んだ方がいいよ。初めての儀式で疲れてると思うから」
……儀式?
聞き覚えのない単語に、自然と眉が寄ります。
わたしは目を瞑り、人魚のアトリとしての記憶を探ってみることにしました。
「うーん……」
アトリの記憶は曖昧なものが多く、思い出せるものも人間だったわたしには馴染みのないものばかりです。
どれがイリスの言う儀式なのか見当がつきません。
けれど――
二人で仲良く食事をしたり、魚たちに餌をあげてお世話をしたり。
並んで歌を歌ったり、真珠で髪飾りを作ってプレゼントしたり。
どの記憶も、笑顔と温もりで溢れていました。
アトリという少女は――わたしの知らないわたしは、とても幸せな日々を送っていたようです。
それはわたしがずっと探し求めていた日々。
もしかしたら、神様がわたしに気を利かせて贈ってくれたのかもしれません。
でも、神様は一つ勘違いをしておられるようです。
どうせなら、わたしなんかより、お母様を幸せにしてほしかった。




