エピローグ1 とある廃ビルにて
とある廃ビル。時代に置き去りにされたその場所は、時が流れるまま、雨風に曝され続け、壁のあちこちに穴が開き、金属のパイプ類は錆びが侵食し、地面は雑草が生い茂っている。
誰も足を踏み入れない、人々に忘れ去られたこの場所にしかし、一人の男が入口に立っていた。
シャッターを乱暴に何度も叩く。
――ダン、―、ダダン、ダダダダン、ダン、ダン――ダダン。
ある種の規則性を感じさせるそのノックは、まるで何かの符丁のようだった。
とその時、ガコンという機械の作動音が響き、無人の筈のビルのシャッターはその口を開けた。
―――パラララ羅らラ螺ラRrrr!!
男がビルに一歩足を踏み入れた瞬間、ものすごい轟音が渇いた建物に響き渡った。そんな音の壁に襲われた男は、体が虫食いの葉のように穴だらけとなり、泡立った血をごぽりと吐き仰向けに倒れた。男は血だまりを作り、それきりぴくりとも動かない。
工場は先ほどの轟音が嘘のように再び静まり返る。
「ったく、危ねーなァ。味方に撃つんじゃねェよ! クソが!」
物陰から先ほどとは別の男が堂々と顔を出した。そして男は悪態をつきながら、床に転がる薬莢をハッキングし、暗闇へ向かって射出した。
「まあまあ、そう怒らないでよ、クロト」
暗がりから、まだあどけなさを残す少年が姿を現す。年はクロトと同じか少し下だろうか。
「うるせェよ。毎回毎回、俺を殺そうとしやがって!」
「それは、毎回君が暗号を間違うからだよ。正しいリズムと全然違うから、
侵入者排除のトラップも作動する。いい加減暗号を覚えてよ」
「俺は暗号通りノックしてるつもりなんだよ!」
クロトは舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
それを見て少年は毎度のことだと半ばあきらめ気味にため息を吐く。
「その辺で許してやれ。あいつはリズム音痴なんだ」
そう言いながら、別の男が物陰から姿を現す。
「ウルせえよ。つーかいい加減このやり方を変えやがれ」
「何を言う! これは様式美だ。映画なんかで、スパイが隠れ家に帰還したとき必ずやっているだろう」
「え!? そんな理由でこの暗号を採用してたの?!」
「そうだ。そして何よりも、新月幹部“七式”の一人、終わりの“アルクス”が毎回失敗して悔しがっている姿を俺は見たいんだ!」
「んだそれ!! つーかそ俺の名前はクロトだっていつも言ってんだろ? んな幼稚なこと言ってねーで、あんたいい加減大人になれよ」
「……それで、アルクス。お前、銀色の魔弾の男は殺せたのか?」
「いや、聞けよ。俺の話を!」
そういって、ブツブツと文句を並べるも、目の前の男は真剣な表情でクロトの言葉を待っている。いつものことだ。
ため息を吐き、諦めと共にクロトは今回の顛末を苦々しげに説明した。
「……そうか、失敗したか。だが、執行部の隊長は暫くは戦闘不能なんだな」
「ああ。奴の術式はズタズタにバラシておいた。次なら殺れる!」
骨が軋むほど強く拳を握る。仕損じた憎しみと悔しさ。そして今度こそ実現する、朔の殺害の感触を想像し、恍惚にも似た悦び。クロトはそれらがないまぜになった歪な顔を浮かべた。
「……」
その壮絶な表情を前に、少年と男は口を挟まなかった。
暫くの沈黙の後、クロトは二人に背を向けて歩き出した。
「どこへ行くんだよ、クロト?」
少年はクロトの背に声を掛けた。
「あァ? 決まってんだろ。もう一度、殴り込みの準備だ! また人形を仕込まねェとな!」
不敵な笑みを浮かべながら、クロトは夜の闇へと消えて行った。
「アルクスがやられるとはな。……だが奴は七式の中でも最弱の男」
男は重い口調で言った。静かな廃ビル内に、男の深い森を思わせる声はよく響く。
「いや、別にクロトは弱くないと思いますけど。あなたから見るとそうなんです?」
少年は首を傾げる。少年からみてクロトは、七式の中でも手合せしたくない部類の人間だった。
「いや、あいつは強い」
「?? じゃあ、どうして最弱なんです?」
ますます訳が分からない。この人のいう事は深淵すぎて、自分には及びもつかないのだ。
「これも様式美だ。こういう時は必ずこう言うのが決まり事なんだ。覚えておけ」
「は、はあ」
やはりこの人は深い。まったく理解が及ばない。
少年は疑問を押しとどめ、話の流れを変えた。
「それにしても、クロトの言ってたこと。√が打ち消されたって…どういうことだろう」
「月見里京介か。“あの女”の情報通り、か。にわかには信じがたかったが…。いよいよ面白くなってきたな」
そう言って男は心底愉しそうに笑うのだった。




