昔々あるところで……
「……一人の少女がいた。彼女が生まれた国は貧しく、生活は豊かではなかった。この国のように温度を調節する道具があるわけでもなく、冬を越すのも命がけだった。だが、それでも彼女には家があった。両親は優しく、家の中はいつも温かかった」
目を閉じるとノイズ交じりの映像。少女はモノクロの世界で手を振って笑っていました。
「しかし、国民の不満は高まる一方で、内戦は頻発し、やがては食糧の流通も止まった。このままこの国にいては、生活が立ち行かない。ある日少女の両親は決心した」
お父さんはしゃがんで、少女の頭をなでて言いました。
“家族でこの国を出よう”
お母さんは笑顔で言います。
“冬の心配をしなくて良い、温かいスープが飲める国に行くんだよ”
三人でぎゅっと肩を寄せ合いました。
窓から差し込む月明かりは蒼く、照らされたお父さんの顔は、とても頼もしく見えました。
「そして遂にその夜は来た。何か月かに一度、国外から来る船が港に訪れる時だ」
家族は貨物エリアに隠れ潜み、国外へ渡る計画でした。少女は最初に船に乗せられました。
次はお母さんの番。しかし、お母さんが乗り込もうとした時、街灯一つない深夜の港に、一斉に光が咲きました。
少女の家の隣人から一家の逃亡の情報を掴んだ国軍の兵士が、辺りを封鎖していました。
隣人は今頃褒賞のパンを、大事に、大事に噛みしめていることでしょう。
お父さんはお母さんを守るため、一歩前に出ましたが、すぐに地面に崩れて“まっかなお花”を咲かせました。お母さんは髪の毛を掴まれて引き倒され……。
最後には金切り声をあげ、動かなくなりました。
「…少女の世界はその瞬間、黒く染められてしまった。昏く、深く、黒く。感情のままに能力を行使した彼女は、その場にいた全員を、黒い憎しみで塗り潰し、そして気を失った」
京介は掛ける言葉を失ってしまい、何も言えずにいた。だがエマは構わず語り続けた。
「そこからはお定まりの話さ。政府に捉えられた少女は、奴らの実験体となって、研究と称した拷問紛いの仕打ちを受けた。入れ替わり立ち替わり、何人もの人間が私を蹂躙した。それが拷問だったならまだ良い。求める情報さえ吐けば拷問は終わるのだから。しかし、少女のそれは終わりの見えない、まさに地獄だ。意識があるまま、肉を裂かれるのは恐怖だ。肌に当たる刃の冷たさも、血の生温かさも、むせかえるような命の臭いも、いつしか日常となっていった」
少女の体を調べる人たちは、もはや自分が何のためにそうしているのか、分からなくなっていました。
「そんな人間が正気を保つ方法はそう多くはない。縋る神を持たない少女は奴らを、人間を憎むしかなかった。その黒い感情だけが、少女の精神を生かした」
エマはボロボロのコートの端を握りしめていた。
「そうして何日、何年たったのかも分からないある日、少女の監視の手が緩んだ時があった。少女はその時に思ってしまった。もう我慢はしなくて良い、と。少女は自らの能力で、見張りを全員殺してしまい、そのまま脱走をした」
―――ああ、なんということだろう。
「しかし、少女の精神はとうに壊れていた。少女が育てた憎しみは育ち過ぎた。それはいつしか関係のない人間にさえ向けられるようになってしまった」
―――安っぽい俺の言葉なんて、届くはずもなかった。
「……この黒い感情が√という形で表に染み出してしまった。私はとうに壊れている。頭の中で人間を殺せという声が聞こえるんだ。もう自分でも止めることはできない程に。私は、まるで映画を見ているかのように、私の体が人を殺すのをただ眺めているだけだ」
―――最初から、結末は決まっていたんだ。
「これが、ブラックドール事件という三文劇の正体だ。この物語には初めから救いなどない。お前という客を満足させるには安い結末だろうが、これでもう十分だろう」
そう言って、エマは立ち去れと言うように、背中越しに手を振った。




