第4話:友人の恋愛に、なぜかGPSが関係してくる件
今回は蓮ではなく、武の変化から物語が動きます。
新しい恋が始まる一方で、姫子の「心配する」という行動が、周囲にはどう映っているのかも少し描いてみました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
七月の最初の週、梅雨が明けてから十日ほどが過ぎていた。
空気は乾く間もなく熱に変わり、アスファルトが朝から白く光っていた。
大学の構内を歩くだけで汗が出た。汗が乾く前にまた汗が出た。
夏とはそういうものだ、と毎年思いながら毎年懲りずに驚いている。
俺——神崎蓮——が武の変化に気づいたのは、昼の食堂だった。
「今日、先に帰る」
武はそう言った。唐揚げ定食を半分以上残したまま、立ち上がろうとしていた。
「どこか悪いのか」
「別に」
「唐揚げ残してる」
「食欲ない」
「嘘をつけ。お前が食欲をなくしたのを俺は一度も見たことがない。去年、胃腸炎でぶっ倒れた時も飯を食おうとしてたじゃないか」
武は少しだけ動きを止めた。
「……用事がある」
「どんな用事だ」
「言わなくていい用事だ」
「秘密か」
「そうだ」
俺は武の横顔を見た。耳の先が、心なしか赤かった。八月の暑さのせいかもしれなかった。でも、食堂の冷房はよく効いていた。
「——彼女か」
武が立ち上がりかけた膝を止めた。
コンマ二秒の停止だった。
「そんなんじゃない」
「じゃあ何だ」
「用事と言った」
「彼女だな」
「そんなんじゃないと言った」
「顔が赤い」
「暑いから」
「冷房が効いてる」
武は俺を見た。目が据わっていた。
「蓮」
「なに」
「この話は終わりだ」
「なぜ」
「蓮が姫子さんに話すから」
俺は少し間を置いた。
「……話さない」
「話す」
「話さないと約束する」
「その約束が信用できない」
「俺の約束が信用できないのか」
「姫子さんが関わってる時に限っては、信用できない」
それは、まあ、否定できなかった。
「——彼女じゃない」武はため息をついた。「まだ、彼女じゃない」
「まだ、ということは」
「いい加減にしろ」
武はトレーを持って立ち上がった。残った唐揚げが、傾いた皿の上で寂しそうに転がった。
「蓮」
「なに」
「姫子さんには、絶対に言うな」
「言わない」
「頼む」
武の声は、いつになく真剣だった。
俺は頷いた。
本当に、頷いた。
その日の夜、姫子から「武くん、最近様子が変じゃない?」とLINEが来た時、俺は三分間悩んだ末に「知らない」と返した。
嘘ではなかった。まだ、ほとんど知らなかった。
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「武くん、彼女できたって本当?」
翌週の水曜日、食堂で姫子がそう言った。
俺と武は同時に固まった。
トマトの入った保冷バッグを持った姫子が、何でもない顔で二人の前に座った。
「……誰から聞いたんですか」武が俺を見た。
「蓮くん」
「てめぇ」
「言っていない」俺は即座に返した。
「本当に言っていない。武、俺は言っていない」
「蓮くんが言ったわけじゃないよ」姫子はトマトを取り出しながら言った。
「武くんの様子が変だったから調べた」
「調べた!?」武の声が裏返った。
「俺を調べたんですか」
「位置情報で木曜の夜と金曜の午後に、いつもと違う場所に行ってるのがわかったから」
「位置情報!? 俺の位置情報をなんで知ってるんですか!!」
姫子は少し首を傾けた。
「武くん、去年の学祭の時に蓮くんのグループに入れてもらったじゃない。あの時から共有されてるよ」
「一年間!? 一年間ずっと!?」
「見てなかったけど、今回は必要だったから見た」
「必要な時だけ見るって、それもどうなんですか!!」
「——姫子」
「なあに」
「それで、わかったのか」
「大体は」姫子は当然のように言った。
「木曜と金曜に行ってる場所が、大学の近くのカフェ。同じ時間帯。複数回。一人で行くには少し遠い」
武が頭を抱えた。
「蓮くんに確認するつもりだったけど、今日みんないるからちょうどよかった」
「ちょうどよくない!!」武が顔を上げた。
「ちょうどよくないです、絶対に!!」
「——大丈夫だよ、武くん」
姫子の声が、少し変わった。
俺は姫子を見た。いつもの「完璧な笑顔」でも、「平坦な観察眼」でもない。
なんというか、少しだけ穏やかな顔をしていた。
「大丈夫、じゃないです。あなたに大丈夫と言われると、逆に何かされそうで怖い」
「私が調べたのは、心配だったからだよ」
「何が心配なんですか」
「武くんが誰かに騙されてないか」
武が絶句した。
俺も少し、驚いた。
「——騙される、って」
「最近、おかしな出会いのサービスとか、いろいろあるでしょ。武くんは優しいから、悪い人に引っかかりやすいタイプだと思って」
「俺を心配してくれてたんですか」
「蓮くんの大事な友達だから」
しばらく、三人とも黙っていた。
食堂の喧騒が、遠くなったような気がした。
武が少しだけ力を抜いた顔をして、テーブルに肘をついた。
「……それは、ありがたい、です」
「で、どんな人なの?」
「速い!! 切り替えが速い!!」
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武が話してくれたのは、その日の帰り道だった。
姫子は先に帰っていた。「二人で話した方がいいと思うから」と言い残して、あっさりと立ち去った。
その判断だけは正しかった、と俺は思った。
「——先輩なんだ」
武はキャンパスの端にある自動販売機の前に立って、缶コーヒーを買いながら言った。
「大学の先輩か」
「図書館で隣に座ったのがきっかけで」
「いつ」
「六月の頭」
「二ヶ月前か」
「ずっと言えなかった」
「なんで」
武は缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。少し苦そうな顔をした。
「蓮が姫子さんと付き合ってるのを見てると、なんか、言いにくくて」
俺は少し、考えた。
「俺が邪魔だったのか」
「邪魔じゃない。ただ——」武が空を見た。
夕方の空で、雲が茜色に染まり始めていた。
「お前が姫子さんと一緒にいるの、最近は慣れたけど、最初はちょっとむず痒かったんだよ」
「むず痒い」
「なんか、眩しいっていうか」
俺は武の横顔を見た。
「お前に眩しいと言われるとは思わなかった」
「そんなことはない」
「姫子がいるからか」
「お前と姫子さんがいるからだ」武は缶コーヒーを持ち直した。
「俺が彼女の話をしたら、絶対に姫子さんに筒抜けになると思って」
「それは——」
「なるだろ」
「……なる可能性は、ある」
「高い可能性で、なる」
「まあ」
「だから言えなかった。姫子さんに調べられるより、自分で言う方がマシだと思って、今日話した」
武は缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てた。
「名前は霜月さん。三年生。法学部」
「どんな人だ」
「静かな人。本が好きで、いつも図書館にいる。俺が騒がしいタイプだから、最初は嫌われると思ってた」
「嫌われなかったのか」
「——笑ってくれた」
武の声が、少し低くなった。
夕暮れの中で、武は少し遠くを見ていた。耳の先が、また赤かった。今度は冷房のせいではなかった。
「俺が変なこと言った時に、呆れるんじゃなくて笑ってくれた。それが、なんか」
「うん」
「それだけで、十分だった」
俺は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
武が「笑ってくれた」という話をする顔は、俺がこれまで一度も見たことのない顔だった。
「——今日、会う約束をしてる」武が言った。
「そうか」
「行ってくる」
「行ってこい」
武は少し歩いて、振り返った。
「蓮」
「なに」
「姫子さんに——お礼を言っておいてくれ。余計なお世話だったけど、心配してくれてたのはわかったから」
俺は頷いた。
武は、今度は振り返らずに歩いていった。
夕暮れの道を、背中が小さくなっていった。
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その夜、姫子に電話した。
コール二回で出た。
「武から聞いてどうするつもりだったんだ、お前」
「何もしない。ただ知りたかっただけ」
「それが問題なんだ」
「どうして」
「知るだけで何もしないってことが、武には怖かったんだよ」
電話の向こうで、少し間があった。
「……そうか」
「そうだ」
「調べたのは、本当に心配だったから」
「それはわかってる。武もわかってた」
「でも、怖かったんだね」
「お前の調査能力は、好意だとわかっていても、怖い」
姫子はまた黙った。今夜は少し、その沈黙が長かった。
窓の外で虫が鳴いていた。夏の虫の、乾いた声だった。
「——蓮くん」
「なに」
「私、やりすぎてる?」
俺は少し考えた。
考えながら、夜の天井を見上げた。
「やりすぎてる。でも」
「でも?」
「お前がやりすぎるのには、理由があるんだろう」
また沈黙があった。
虫の声が続いた。どこか遠くで、車が一台通り過ぎた音がして、消えた。
「——蓮くんに話したことがあることだけど」
「聞く」
「小さい頃、父が急にいなくなったでしょ。何の予兆もなく」
「ああ」
「その時から、ずっと、近くにいる人の様子を観察するのが癖になった。変化を見逃すと、気づいた時にはいなくなってるから」
「……うん」
「だから、見てしまう。位置情報も、行動も、表情も。見ていれば、変化がわかるから」
「姿が消える前に、気づけるから」
「そう」
俺は天井を見たまま、息を吐いた。
「——それを、武に話したことは」
「ない」
「今度、話してみろ」
「武くんに?」
「説明できれば、少し変わるかもしれない」
姫子が少し、息を吸う気配がした。
「……蓮くんって、たまにそういうこと言うよね」
「そういうこと、とはなんだ」
「普通なことを、普通じゃないタイミングで言う」
「普通なことを言っただけだ」
「そのタイミングが、普通じゃない」
「意味がわからない」
「わかってて言ってると思う」
「わかっていない」
電話の向こうで、姫子がふっと笑う気配がした。
「——七割五分にする」
「増えた!!」
「今夜の話が、よかったから」
「コンマ刻みが続いてるな」
「積み重ねだから」
「いつになったら百割になるんだ」
「百割はない」
「なぜ」
「人間に百割の信用は存在しないから。九十九割が上限だよ」
「哲学的すぎる!!」
「本当のことだよ」
俺は少し黙って、それから笑った。
笑っていることに、自分で少し驚いた。
「——姫子」
「なあに」
「来週、武が霜月さんと会う時、追跡するな」
「する気はなかった」
「本当か」
「……する気は、あまりなかった」
「するな」
「……わかった」
「それと」
「なあに」
「武が怖いと言った気持ちを、ちゃんと覚えておけ。悪かったとは言わないが、覚えておけ」
長い沈黙があった。
虫の声の中で、姫子は黙っていた。
「——覚えてる」
「それでいい」
「蓮くん」
「なに」
「ありがとう」
「何に対してだ」
「全部に対して」
俺はまた、なんと返していいかわからなかった。
「——おやすみ」
「おやすみなさい」
電話が切れた。
夏の夜が、部屋に残った。
虫の声が続いていた。蒸し暑い空気が、じっとしていた。
信用七割五分。
百割はないという彼女の言葉を、俺は少し考えた。
九十九割まで行ける、と彼女は言った。
つまり、あと二十一割五分、まだ道がある。
それが長いのか短いのか、今の俺にはわからなかった。
ただ、長くても構わないとは思っていた。
積み重ね、と彼女は言った。
コンマ五刻みでいい。その言葉が、妙に腑に落ちた夜だった。
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翌週の木曜日、武は霜月さんと会ったらしい。
どうだったか、俺から聞くことはしなかった。
しかし金曜の昼に武が食堂に来た時、唐揚げを一つも残さなかったことで、俺にはおよその結果が想像できた。
姫子は何も聞かなかった。
俺は姫子が何も聞かなかったことに、少し驚いた。
「聞かないのか」
「武くんが話してくれる時に聞く」
「そういう使い分けができるんだな」
「蓮くんが言ったから」
「俺が言ったか」
「覚えてておけって」
俺は少し、黙った。
「——姫子」
「なあに」
「偉いな」
「褒めてくれるの?」
「珍しく、素直に、褒めてる」
姫子はぱちぱちと瞬きをして、それから少し目を伏せた。
「……また信用、増やそうか」
「いくらにするんだ」
「八割」
「一気に上がった!!」
「蓮くんが今日、素直だったから」
「そうか」
「そうだよ」
昼の食堂に光が差し込んでいた。夏の日差しが窓を通って、テーブルの上に四角い影を作っていた。
武は三人から少し離れたところで、スマホを見ながら笑っていた。
誰からのメッセージか、俺には聞かなかった。
そのうち話してくれるだろう、と思った。
積み重ねというのは、何も二人の間だけの話ではないのかもしれなかった。
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次回予告
「蓮くん」
「なに」
「霜月さん、私のことを怖いと思ってるみたい」
「当然だろう」
「どうすれば怖くないと思ってもらえる?」
「その質問自体が怖い」
武の彼女・霜月澪が登場する。
静かで、本が好きで、姫子の「管理体質」に気づいてしまった彼女は、真剣な目で武に問いかける
—「あの子、大丈夫なの?」
次回、第5話「怖いと言われる側の話」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は武が少しだけ前へ進む回でした。
そして同時に、姫子も蓮の言葉を受けて少しだけ変わろうとしています。
次回は武の恋人・霜月澪が本格的に登場します。
姫子を「怖い」と感じた彼女が何を見て、何を考えるのか。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




