第5話:怖いと言われる側の話
今回は、武の恋人・霜月澪が初めて登場します。
誰かを理解しようとすること。
誰かに理解されること。
その二つが重なったとき、人は少しだけ肩の力を抜けるのかもしれません。
いつもとは少し違う姫子の表情も、楽しんでいただけたら嬉しいです。
霜月澪に初めて会ったのは、武から付き合い始めたという報告を受けた翌週の土曜日だった。
武からLINEが来たのは金曜の夜だった。
「明日、霜月さんと会うんだけど。蓮も来るか」
俺は三秒考えた。
「姫子も呼んでいいか」
「……悩んだな」
「悩んでいない」
「悩んだだろ。打つの遅かったぞ」
「お前の気持ちを優先しようと思ったからだ」
「じゃあ俺の気持ちを優先した結果は」
「姫子も呼んでいいか、だ」
「優先されてない!!」
「俺の答えが姫子を呼ぶことだったんだ、優先した結果として」
「蓮、お前な」
「どうする。来るか来ないか」
しばらく間があった。
「……霜月さんに聞いてみる」
五分後に返事が来た。
「いいって。霜月さん、神崎くんの彼女さんも一緒なら気が楽だって言ってた」
俺は、その時点で一つ予感した。
霜月澪という人間は、姫子の何かを見抜く可能性がある、と。
その予感は、翌日の昼過ぎに、正確に的中した。
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待ち合わせは大学近くの定食屋だった。
武が「ファミレスだと周りがうるさい」と言い張った結果、昔ながらの落ち着いた店になった。
俺と姫子が先に着いて、二人が来るのを入口で待っていた。
「武くん、どんな人を連れてくるんだろう」
姫子が静かに言った。
「静かな人らしい。本が好きだと言っていた」
「ふうん」
「何を考えてる」
「武くんと真逆のタイプだな、と思って」
「それが気になるか」
「少し」
「なぜ」
「真逆のタイプが長続きするかどうか、気になる」
「今から心配するな」
「心配じゃなくて観察」
「観察もするな」
「……七割に戻す」
「なぜ下がる!!」
「蓮くんが厳しかったから」
「八割まで上げたのは昨日だぞ!!」
「その後で蓮くんが三回私の行動に注意したから、七割五分まで戻ってた」
「コンマ五刻みが続いてる!!」
そこで入口のドアが開いた。
武が入ってきた。
その隣に、霜月澪がいた。
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第一印象は、静かな人、という武の言葉そのままだった。
背がすらりとしていて、髪が鎖骨のあたりまである。眼鏡をかけていて、フレームが細い。服装は白いシャツと薄いグレーのパンツで、余計なものが何もない。
目が落ち着いていた。場所を見て、俺たちを見て、それから武を見た。その順番が、思慮深い人間のそれだった。
「神崎蓮です」俺は言った。「武からよく聞いています」
「霜月澪です」霜月さんは静かに言った。「私も聞いています。神崎くんのことは」
声が穏やかだった。低すぎず、高すぎず、よく通る声だった。
「桐島姫子です」姫子が言った。
霜月さんが姫子を見た。
そこで、何かが起きた。
一秒に満たない時間だったと思う。霜月さんの目が、姫子をまっすぐ見て、何かを読んだ。その間が、俺には少しだけわかった。
霜月さんは静かに微笑んだ。
「はじめまして」
「はじめまして」と姫子が返した。
武は気づいていなかった。
俺は気づいていた。
霜月澪は今、姫子の何かを、確かに見た。
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定食屋の四人席に座って、注文を終えた頃には、会話はそれなりに動いていた。
武が基本的にしゃべり続けていたので、空気が途切れることはなかった。
「霜月さんって読書量、すごいですよね。先週も三冊読んだって言ってたし」
「普通だよ。図書館にいれば自然に増える」
「普通じゃないですよ。俺なんか一ヶ月で漫画三冊くらいですから」
「漫画も読書だよ」
「えっ、そうなんですか」
「そうだよ」
「姫子さん、霜月さんが漫画も読書だって!」
「そうだね」姫子が言った。「私もそう思う」
「桐島さんは本を読むの?」霜月さんが姫子に聞いた。
「少し。心理学系が多いかな」
「どんなものを」
「人の行動パターンとか、認知のバイアスとか。人がどうして特定の行動を取るのかが気になって」
霜月さんが少し考えるような顔をした。
「行動予測、みたいなものに興味があるんだ」
「そう、かもしれない」
「人の動きが読めると、安心できるから?」
姫子がぱちぱちと瞬きをした。
俺も少し、止まった。
「……そういうことを聞く人、あまりいないね」
「ごめん、踏み込みすぎた」
「いや」姫子が静かに言った。「そうかもしれない、と思っただけ」
武は二人のやりとりを見て「なんか難しい話してる!」と言った。
場が少し和んだ。
俺は霜月さんをもう一度見た。
この人は、たった数分で姫子の核心に触れた。悪意なく、自然に、まっすぐに。
それができる人間が、この世にどれだけいるか。
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食事が終わって、武と姫子が会計に並んでいる間、俺と霜月さんが席に残った。
偶然ではなかった。俺が「先に行ってくれ」と言ったからだ。
霜月さんは本を閉じた。
店に来る前から鞄の中に文庫本が入っていたらしく、少しの隙間にも読んでいた。その動作が全く嫌みではなく、ただの習慣に見えた。
「少し聞いていいですか」
俺が言った。
霜月さんが俺を見た。目が落ち着いていた。
「さっき姫子に言ったこと。行動予測ができると安心できるから、という話」
「……気になった?」
「姫子が驚いていた。姫子があの顔をするのは、珍しい」
「私は余計なことを言ったかもしれない」
「そういう話ではなくて」俺は言った。「霜月さんは、初対面でそれに気づいた」
霜月さんが少し黙った。
外では武が何か姫子に話しかけていた。笑い声が聞こえた。
「武から話を聞いていたから」霜月さんが言った。「桐島さんが位置情報を見る話とか、神崎くんを調べる話とか」
「武がそれを話したのか」
「心配してる、って言い方をしていた。どう接したらいいか、わからないって」
俺は少し、意外に思った。武がそんなことを霜月さんに話していたとは。
「それで、桐島さんを怖いと感じているのかなって思ったら」
霜月さんが少し目を伏せた。
「怖いんじゃなくて、不安なんだ、と見えた。行動が大きいのは、何かが怖いから。そういう人を、私は知っているから」
俺は少し、黙った。
「知っている、とは」
「母が、少し似てた。過干渉だったわけじゃないけど、人の動きをよく見る人で。後でわかったのは、父が急に出て行ったことのせいだった」
俺の中で何かが、静かに合わさった。
「——姫子も、父親が急にいなくなった」
霜月さんが俺を見た。
「そうなんだ」
「言ってしまっていいかどうか、迷ったが」
「いや、ありがとう」霜月さんが静かに言った。「そういうことなら、私が言ったこと、意味があったのかもしれない」
「姫子は驚いていた。当たっていたから」
「怖がらせたくはなかった」
「怖がってはいない。ただ、見られた、と思ったんだろう」
霜月さんが少し、眉を寄せた。
「——ごめん。私も、少し、余計に見すぎる癖がある」
「観察が得意な人間同士だったのかもしれない」
霜月さんがふっと笑った。声を出さない笑い方だった。柔らかかった。
「神崎くんは、面白い人だね」
「褒め言葉として受け取ります」
「そのつもりで言った」
武と姫子が戻ってきた。武が「二人で何の話してたの!」と言った。
「読書の話」と霜月さんが言った。
「蓮がぁぁ?」武が俺を見た。
「するだろう、読書の話くらい」
「絶対しない」
「失礼だな。おい」
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店を出たあと、四人で少しだけ歩いた。
駅の方向が姫子と霜月さんで同じだったので、二人が並んで歩く形になった。
後ろを俺と武が歩いた。
武が小声で言った。
「どうだった? 霜月さん」
「いい人だと思う」
「だろ」
「お前が惚れた理由が分かった」
武が少し照れたような顔をした。耳が赤くなっていた。
「なんで急にそういうこと言うんだ、お前は」
「思ったことを言った」
「恥ずかしいだろ」
「恥ずかしいなら耳を隠せ」
「隠せるか!!」
前を歩く二人が何かを話していた。姫子の声が聞こえた。霜月さんの声が返った。笑い声ではなかったが、静かな会話が続いていた。
「——姫子さんと話せてるっぽい」武が少し安心したように言った。
「霜月さんが上手いんだろう」
「俺の心配しすぎだったかな」
「心配は無駄じゃなかった。霜月さんに話しておいたから、霜月さんが姫子を理解できた」
武が俺を見た。
「俺が霜月さんに話したのが、よかったのか」
「よかった」
武はしばらく黙って、それから言った。
「蓮ってさ、たまに先生みたいなこと言うよな」
「先生みたいとはなんだ」
「なんか、後から考えると全部つながってる感じがする」
「繋がっているのはお前たちだ。俺は何もしていない」
「いや、してる」
「していない」
「してる」
「していないと言っている」
「じゃあ、ありがとうと言ってもいいか」
俺は少し黙った。
「……言うなら止めない」
「ありがとう、蓮」
夏の空が青かった。雲が白くて、高かった。
前を歩く二人の距離が、来た時より少しだけ縮まっているような気がした。
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駅の改札前で四人が分かれる時だった。
霜月さんが俺に近づいて、小さな声で言った。
「神崎くん」
「はい」
「桐島さんのこと、大事にしてね」
「しています」
「知ってる。でも、あの子は多分、大事にされることに慣れていないから」
俺は少し、間を置いた。
「——それも、わかりましたか」
「見ていたら、わかる」
「観察が得意な人は、大変だな」
霜月さんがまた、声の出ない笑い方をした。
「お互いに」
改札を抜けて、霜月さんの背中が見えなくなった。
武が「じゃあな!」と手を振った。
姫子が隣に来た。
「——霜月さん、いい人だね」
「そうだな」
「何を話してたの、二人で」
「読書の話をした」
姫子が俺の横顔を見た。
「本当に?」
「本当に」
「……嘘くさい」
「なぜ」
「蓮くんの耳が少し赤い」
「夏だから暑い」
「冷房が効いてたよ」
「武の受け売りをするな」
姫子がふっと笑った。
それはいつもの完璧な笑顔でも、平坦な観察眼の顔でもなく、少し力の抜けた笑い方だった。
「霜月さん、また会いたい」
俺は少し、驚いた。
姫子がそういう言い方をするのは珍しかった。
「会えるだろう、武がいる限り」
「そうだね」
「どうした、急に」
「なんとなく」姫子が前を向いた。「私の話を、あんなふうに聞いてくれる人、あまりいないから」
俺は少し考えた。
「姫子」
「なあに」
「霜月さんが、何かを言ったか」
「少し」
「どんなことを」
「……行動が大きい人は、何かが怖い人なんだと思う、って」
「それを聞いて、どうだった」
姫子は少し黙った。
夏の駅前で、人が流れていた。蝉の声がどこかから聞こえた。
「怖かった、じゃなくて」姫子が静かに言った。「わかってもらえた、って思った」
「そうか」
「初対面の人に、そういうことを思ったの、初めてかもしれない」
俺は何も言わなかった。
姫子の言葉が、夏の空気の中に混ざって、溶けていった。
「——蓮くん」
「なに」
「信用、九割にする」
俺は立ち止まった。
「一気に上がりすぎだ!!」
「霜月さんと話せたのは、蓮くんが武くんと繋いでくれたから。だから」
「九割はさすがに大きすぎる!!」
「十秒ぐらい悩んで決めた」
「悩んだ時間が短い!!」
「蓮くんが積み重ねてくれてきたから」
「それでも段階がある!!」
姫子が笑った。今度は声のある笑い方だった。
それが珍しくて、俺は少し、言葉を失った。
「——本当に九割にするのか」
「する」
「百割はないと言っていた」
「九十九割が上限だって言った。まだ余裕がある」
「哲学を持ち出すな」
「事実だよ」
「一段階ずつにしろ」
「嫌だ」
「なぜ」
「今日がよかったから」
俺は姫子を見た。
夏の光の中で、姫子が少し眩しそうに目を細めていた。
完璧じゃない顔で、少しだけ力の抜けた顔で、立っていた。
俺はため息をついた。
「……わかった。九割で結構」
「うん」
「霜月さんに感謝しろ」
「してる」
「声に出して言え」
「霜月さんに会ったら言う」
「それでいい」
二人で歩き出した。
蝉の声が続いていた。夏の光が、アスファルトに白く落ちていた。
姫子の歩幅が俺の隣で、いつもより少しだけのびのびしているような気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいでないかもしれなかった。
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その夜、武からLINEが来た。
「霜月さんが、姫子さんのこと心配してたって言ってた」
「心配?」
「大丈夫なの? って聞いてきた。最初から」
「なんて答えた」
「大丈夫だと思う、って言った。蓮と一緒にいるから、って」
俺はしばらく、画面を見た。
「蓮と一緒にいるから、か」
「そしたら霜月さんが、そうだね、って言ってた」
「霜月さんを大事にしろ」
「わかってる」
「お前に合ってる人だと思う」
「……そういうこと、急に言うなよ」
「思ったから言った」
「照れるだろ」
「耳が見えないからわからない」
「見えなくてよかった!!」
スマホを置いた。
夏の夜が部屋にあった。虫の声が続いていた。
蓮と一緒にいるから、大丈夫だ、と武は言った。
俺には、その言葉の重さが少し大きすぎた。
でも、それに応えようとは思った。
九割の信用。百割はないという彼女の言葉。九十九割が上限。
あと九割まで、まだ積み重ねがある。
それが長くても、今は構わないと思っていた。
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次回予告
霜月澪が武に言った言葉は、武の口から姫子に伝わった。
「大丈夫なの?って聞かれた」
姫子が俺を見た。
「蓮くん」
「なに」
「霜月さんに、話しに行ってもいいかな」
「何を話しに」
「私の気持ち」
武が唐揚げを手にしたまま固まった。
「え、急にどうした!?」
「積み重ね、だよ」姫子が静かに言った。「蓮くんが言ってたから」
俺は少し間を置いた。
「——行ってこい」
「うん」
次回、第6話「怖がらせていたのは私だった」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は霜月澪という新しい人物が加わりました。
姫子はこれまで、蓮だけを少しずつ信用しながら歩いてきましたが、初めて「蓮以外にも理解してくれる人」と出会います。
そして蓮もまた、自分では気づかない形で周囲との縁をつないでいました。
「信用」は一日では生まれません。
けれど、誰かの一言や一度の出会いが、その積み重ねを大きく前へ進めることがあります。
次回は、姫子自身がその一歩を踏み出す物語です。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。




