第9話 拾った棒の所有権
フェンリルは、棒を返さなかった。
両前脚の間へ細長い枝を置き、太い尾をゆっくり動かしている。目の前の子供が手を出しても、唸りはしない。ただ、鼻先で枝を自分の胸へ寄せる。
「取らないでください」
本人の言葉を聞き、梶原恭次は手を止めた。子供へ少し待ってと伝え、隣へしゃがむ。
草地は町外れの道から少し入った場所だった。木陰があり、遠くには畑が見える。ここで遊んでいた子供が、棒を返してもらえなくなったので恭次を呼んだのだという。
「その棒は、君の物か」
恭次が子供へ聞くと、朝ここへ来る途中で拾ったと答えた。フェンリルへ向かって投げたのは、自分だった。
「また投げてほしいのかと思ったら、戻ってきて持ってるんだ」
恭次は大きな狼を見た。銀灰色の毛と立った耳は、道を通る人が少し離れて歩く理由になる。だが、今はこちらの話を待ち、子供へ歯を向けることもない。
「これ、もう一度投げてほしいか」
「はい」
「じゃあ、渡してくれれば、投げられる」
「渡すのは、困ります」
恭次は草の上へ片膝をついた。スミは来ていない。今日はハコだけ一緒で、少し後ろに立ち、口へ棒を入れる役を頼まれないことを確かめていた。
「飛んでいくのを追いたい。でも、手元には残しておきたいんだな」
フェンリルはうなずいた。恭次は棒の端を見た。乾いて滑らかで、噛んだ跡はあるが割れていない。本人が気に入ったらしい。
子供は腕を下ろした。
「それを放してくれないと、次ができないよ」
言葉の細かい意味はフェンリルへ通じない。恭次が伝えると、相手は尾を止めた。前脚の間の棒を見て、それから空の草地を見る。
恭次は近くから別の枝を拾った。尖った所がないか確かめ、少し曲がった先を折る。
「これはどうだ。今のを置いて、こっちを追う」
フェンリルはその枝を見た。鼻を近づけ、においを確かめる。恭次がゆっくり差し出すと、口で受け取った。
そして、前脚の間へ置いた。
棒が2本になった。
ハコのふたが、指1本ほど開いた。恭次が振り返ると、まだ何も言っていないのに閉じる。
「預かってほしいと頼んだわけじゃない」
「念のためです」
恭次はフェンリルを見た。本人は2本へ交互に鼻を近づけ、どちらも気に入った様子だった。もう1本追加すれば、遊ぶ物が3本手元へ残るだけかもしれない。
* * *
恭次は子供へ、少し座って待てるか聞いた。
子供はうなずき、木の根を避けて草へ座る。フェンリルも前脚を伸ばしたまま、その顔を見た。
「これをどうしたいか、1本ずつ決めよう」
恭次は最初の滑らかな棒を指す。フェンリルは取られないよう脚を寄せかけたが、恭次が触らずに待つと動きを止めた。
「これは、持って帰りたい?」
「はい」
「こっちの曲がった方は?」
「追いかけやすそうです」
恭次は顔を上げた。ようやく使い方の違いが出た。子供へ、最初の棒をこの相手へあげる気はあるか尋ねる。
子供は少し考えた。持って帰って工作に使うつもりではなく、遊ぶため拾っただけだという。別に遊べる棒があれば、渡して構わない。
「じゃあ、それは、あげる。ただ、次に投げる方は返して」
恭次が通訳すると、フェンリルは最初の棒を前脚から少し離した。
「こっちは遊ぶ間、投げる人へ戻す。それでも、もう君と遊ばないという意味にはならない」
恭次は曲がった方を指して言った。相手は子供を見た。
「返したら、もう一度?」
「今、遊べる間は。帰る時刻も聞こう」
子供は、鐘が鳴る前には家へ戻ると言った。何度でも投げ続ける約束ではなく、今この場所で少し遊ぶ。その条件を恭次は伝えた。
フェンリルは口を開け、曲がった棒をそっと前へ押した。
子供が拾い、誰もいない草地の方へ軽く投げた。フェンリルの体がすぐ立ち、銀色の尾が草の向こうへ動く。
棒を拾って戻るのは早かった。
返すところで、止まった。
恭次は手を出さずに待った。子供も、引っ張らず掌を開いている。フェンリルは手元の滑らかな棒と、口の中の棒を見比べるように鼻を下げた。
それから、子供の前へ曲がった方を落とした。
「もう一度だな」
子供が言い、同じ方向へ投げる。恭次はその間に、持ち帰る方が転がっていかないよう、浅い草のくぼみへ置くと伝えた。フェンリルは戻ってきて、そこへ鼻を近づけてから次の棒を返した。
ハコは木陰の端で待っていた。恭次が、最初から2本にすればよかったと思った、と話すと、箱は短く答えた。
「増やしただけでは、増えました」
「そうだった」
草地では、曲がった棒がもう一度飛んだ。滑らかな方は、くぼみに残っていた。
* * *
鐘が鳴る少し前、子供は最後の1回だと告げた。
恭次はその言葉を通訳した。フェンリルは戻ってきた後、もう投げられない曲がった棒を見たが、取らないでとは言わなかった。子供が次もここで会ったら遊ぼうと声をかける。
持ち帰る約束にした滑らかな棒を、フェンリルは口へくわえた。曲がった方は子供が持ち、ほかの人の物へしないよう家へ持って帰るという。
恭次はそれでよいか双方へ確認した。どちらも了承し、子供は手を振って道へ戻った。
フェンリルはその後ろを追いかけず、木陰へ座った。
恭次は後日の短い相談なら、看板に出す受付の日へ来てほしいと伝えた。家へ行くときは道の端を通り、門の外で声をかける。大きな体で急に庭へ入れば、仲間が驚くからだ。
フェンリルはうなずき、枝を地面へ下ろした。謝礼を約束した立ち会いではなかったので、恭次は何かを請求しなかった。その代わり、今日は帰って仕事の残りを片づけると告げる。
ハコが歩き出した。恭次が隣へ並ぶと、背後から声がした。
「これは、投げなくていいのですか」
振り返ると、フェンリルが持ち帰る方の棒を見せていた。
「それは、君が持って帰る分だ」
恭次が答えると、相手は少し考え、胸元へもう一度寄せた。こちらへ渡すかどうかは、今日はそれ以上相談しなかった。




