第8話 それ、私の糸です
白い糸には、靴下が2足ぶら下がっていた。
巨大グモは、その下で脚を動かさずにいた。家の玄関前で見たときより、糸の位置を示す動作が小さい。梶原恭次は近づきすぎず、どの糸かを尋ねた。
「そこです。私が、通る所です」
糸は水車小屋から少し離れた共同の洗い場にあった。2本の木の間へ渡り、そこから枝分かれした細い糸が茂みへ続いている。洗濯物のある1本だけが、恭次の胸ほどの高さへ張られていた。
洗濯をした人は、毎朝そこへ丈夫な糸があるので、自由に使ってよい物干しだと思ったという。
「夜にはない日もあったけど、朝には張り直してあるからね」
本人は困った顔で靴下を見た。誰かが使えるよう手入れしてくれている、と考えたらしい。
恭次が通訳すると、クモが前の脚を持ち上げた。
「私のために、張り直していました」
夜に緩んだ所を直し、朝に通れるよう整える。その場所へ、水を含んだ布がぶら下がったのだ。
恭次は糸を見た。靴下だけなら軽いと思ったが、その先には厚い上着もある。糸は中央が少し下がり、枝分かれの結び目が引かれていた。
「外す。その間、触ってよい所を教えてくれ」
洗濯物の持ち主へ事情を伝えると、すぐ外そうとしてくれた。ただ、端の1本が服へ絡んでいる。持ち主は小さな刃物を出した。
「待って」
クモと恭次の声が重なった。人間に聞こえたのは、恭次の方だけだった。
切ろうとした細い糸は、物を留めるための余りではない。クモが木の裏から手前の太い糸へ移るための、足場の一部だという。
恭次は切らずに、まず上着を支えるよう伝えた。重さを少し持ち上げると、引かれていた糸が戻る。クモが前の脚で絡みをほどき、服の端だけを渡した。
濡れた服を恭次が受け取り、持ち主が籠へ収める。
ガンは少し後ろで、石を置けそうな地面を見ていた。今日はクモの話を聞く前から工事を始めることはなく、恭次が手を空けるのを待っていた。
「別に、干す所」
短い声がした。恭次が振り返ると、ガンは洗い場の端を指した。
* * *
洗濯物を全部下ろすと、糸は元の高さへ戻った。
クモは木の根元から裏側へ回り、脚を1本ずつ糸へかける。恭次には少し細く見えたが、本人は腹を持ち上げ、安定して進んだ。さっき靴下があった辺りを抜け、反対の木へ移る。
「ここが、通り道か」
「下の草を回るより、早いので」
恭次は人間の足で近くを歩いてみた。背の高い草があり、地面も少し湿っている。人間なら洗い場の石を通れるが、大きな体のクモは人とすれ違う場所を避けていたのだ。
持ち主へ説明すると、気づかなかったと謝った。見えない所を通ってくれていたので、人間側は、その道の存在に気づかなかったらしい。
「でも、洗った物も干さないとね」
持ち主は籠を持ち直した。今日外した分を家へ運ぶことはできるが、今後も洗い場の近くに物干しが必要だった。
恭次はガンの提案を確認した。地面に低い台を2つ置き、木の支柱を立てて、別の紐を渡せるという。石はその場から勝手に削らず、作業場へ持つ端材を使う。
「ここを使ってよいか、先に聞こう」
ガンはうなずいた。洗い場を管理する人へ持ち主が聞きに行き、恭次はクモに場所を確かめた。新しい支柱が通り道の下へ突き出さず、脚を運ぶ枝先にもかからない位置を選ぶ。
管理する人は、通路が狭くならず、雨水の溝を塞がないなら構わないと答えた。持ち主は紐と木の棒を用意し、ガンの加工には決めた分の謝礼を出すことになった。
恭次は通訳の分も先に確認した。今日の物干し作りは全部を無料で引き受ける相談ではなく、双方の許可を得て実物を作る仕事だった。
ガンが端材を運びに行く間、恭次はクモと一緒に、残す糸の範囲を持ち主へ示した。文字の札だけでは、クモには読みにくい。人間にも見えるよう、触れてはいけない側の木へ、小さな色布を結ぶことにした。
糸そのものへ重りを付けるのではなく、木へ。クモが脚を掛ける場所を邪魔しない位置を、本人へ選んでもらった。
恭次は途中で一度、木の右側と言い、クモが違う方を示した。相手は裏側からこちらを向いている。同じ右という言葉だけでは合わないので、洗い場の石へ近い側、と言い直す。
本人が短く了承した。
* * *
ガンは石の台へ穴を合わせ、支柱を立てた。
大きな音を出す前に、作業を始めると周囲へ伝えている。削った欠片は布の上へ落とし、水の溝へ流さない。恭次は布を支え、持ち主が木の棒を渡した。
紐を張ると、洗い場から少し横へ離れた場所に物干しができた。クモの糸より低く、人が手を伸ばしやすい。支柱の外側を、籠を持って通る幅も残る。
クモは自分の糸をもう一度渡り、新しい物干しへ脚が触れないと確かめた。持ち主も通路を歩き、恭次は水の流れる溝へ石が落ちていないか見た。
管理する人には、石の台を置いた場所を実際に見てもらった。雨のとき溝を掃除する人が通れるか、空の籠を持って一度歩く。台は重いが動かせるので、困るようならガンへ相談して位置を直すという約束もした。
クモは物干しの紐を自分の糸へつながないでほしいと、最後に付け加えた。持ち主は自分の紐の端を示し、こちらだけ外して片づけると答えた。
ガンは完成した台の隣へ立った。
持ち主は、片づいたねとクモへ声をかけた。細かな意味は通じなくても、頭を下げたことは伝わったらしい。クモは脚を1本だけ動かして返した。
持ち主は濡れた洗濯物の籠を抱え、いつもの木の方へ足を向けかけた。
ガンが一歩、台の横へ出た。
恭次はその顔と、新しい台を見比べた。礼を言おうと口を開く前に、ガンが短く告げた。
「干す所。こっち」
持ち主は、そうだったと笑って向きを変えた。新しい紐へ、さっき外した靴下を掛ける。
ガンは台の横で、それが落ちないことまで見届けた。恭次は作ってくれてありがとうと伝えた。ガンは、許可も聞いた、と答えた。
「うん。先に聞いた」
恭次が返すと、石の肩が少しゆるんだ。
帰る前、クモが、明朝も糸はあると教えた。恭次は持ち主へ伝え、もう物干しとは思わないという返事をもらった。ガンが作った方には、靴下の隣へ上着が掛かり始めていた。




