第7話 悲鳴が欲しいわけではない
洗濯物の向こうから、白い腕が出ていた。
水車小屋の脇を通った女性は、濡れた布を持ち上げ、どうも、とだけ挨拶した。そのまま布を広げ、竿へ掛ける。
腕は、洗濯物の裏へ戻った。
「こうなのです」
ゴーストが言った。梶原恭次は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
今日は午後の受付を短くして、水車小屋へ来た。先日の用件だけでは事情が分からず、本人の希望で立ち会うことにしたのだ。時間と謝礼は先に相談し、水車小屋の人にも、仕事の邪魔をしない位置で確認すると伝えてある。
「怖がってもらえない、という話だったな」
「はい」
ベルグが恭次の隣へ来た。水際の石に座り、洗濯物の方を見る。スミの籠は、小屋の扉から少し離れた乾いた台へ置いた。中は粉埃があるので、そこへ入るつもりはないという。
恭次は、ゴーストへもう一度やってもらった。
白い姿が布の裏から浮かび、顔らしい影を前へ出す。女性は別の布を持ったまま横へ動き、風で揺れた洗濯物を押さえた。
「今日は風が出たね」
声をかけた先は、ゴーストではなく、水車小屋の中の人だった。
ゴーストは腕を下ろした。恭次にはその輪郭が少し薄くなったように見えた。
「大きな声で、出てみる?」
恭次が言うと、ゴーストは少し考えた。人間にも風のような声は聞こえるが、細かな言葉は通じない。急に声を上げれば、確かに驚くかもしれなかった。
「それで、悲鳴が出ればよいのか」
ベルグが聞いた。
ゴーストは答えなかった。白い手が、干された布の端へ伸びる。短い間だけ触れられるらしく、布が少し持ち上がった。すぐ手が透け、布は元へ落ちる。
恭次は見ていた女性へ、今のはゴーストがしたことだと伝えた。
「分かってるよ。ここにいる子でしょう」
女性はあっさり答えた。彼女には言葉まで聞こえないが、時々白い物が通るのは知っている。布が揺れても、風かその相手かと思うだけらしい。
恭次が通訳すると、ゴーストが前へ出た。
「子、ではありません」
ベルグが隣で深くうなずいた。恭次はまず、前からここに住んでいる相手だそうです、と言い直した。女性は悪かったねと返し、手に持った布を籠へ置いた。
「それで、何を困っているの」
恭次もゴーストを見た。ここまで聞いても、悲鳴を出してほしいのかどうかは、まだ分からなかった。
* * *
水車の音は絶えず続いていた。
恭次たちは小屋の壁際へ移った。水際を塞がない、平たい石のある場所だ。ゴーストが通ると、日陰の輪郭がぼんやり薄くなる。ベルグは首を伸ばして相手を見た。
「姿は、見えている。それを風の話だけで済ませられるのは、好ましくないだろう」
ゴーストはうなずいた。
「私は、います」
恭次は、水車小屋の人へ向けた白い腕を見た。
「見て、返事をしてほしい?」
ゴーストは、今度はすぐうなずいた。
「私が出たときに、私へ」
ベルグが恭次を見た。恭次が視線を返すと、小さくうなずいた。
恭次は女性へ説明した。風が動かした布を見て言うのではなく、本人の姿を見て挨拶してほしい。叫ぶ必要はなく、仕事を止めて長く話す必要もない。
女性はその話を聞いて、ゴーストの浮く方へ顔を向けた。
「姿を出していたんだね。気づかずに布を掛けて、ごめんよ」
恭次は通訳しようとしたが、ゴーストがそれより先に体を少し縮めた。言葉の全部は分からなくても、顔を向けられたことは伝わったらしい。
「洗濯の手を止めなくてよいとは、お伝えください」
恭次はそれを伝えた。女性は笑い、手が空いている今なら、ちゃんと挨拶できると答えた。
本人の正面がどちらか分かるよう、ゴーストは布の裏から横へ移った。薄い顔と腕が、木の柱の前へ出る。恭次がこの位置なら見えますかと聞くと、女性はうなずいた。
「おはようございます」
女性が言った。もう午後だったので、恭次は言い直すべきか迷った。女性は最初にきちんと挨拶するのだから、それでいいと自分で付け加えた。
ゴーストは両手を下へそろえた。体の上半分が、少しずつ透けていく。
「薄くなってるが、大丈夫か」
恭次が小声で聞くと、返答まで間があった。
「こちらを、ずっと見ておられるので」
ベルグが目を伏せた。恭次も視線を少し外す。
女性は布を1枚持ち上げた。
「これ、干したらまた通るよ。そのとき、こちらへ出ておいで」
ゴーストはうなずき、柱の影へ寄った。恭次は、その場所にいれば洗濯物へ腕を通さず挨拶できることも伝えた。
仕事が続き、女性は濡れた布を竿へ掛けた。その帰り、柱の前へ現れた相手を見て、こんにちはと声をかける。
今度はゴーストも片手を上げた。白い姿は少し薄いままだったが、柱の裏へ全部隠れずに残った。
恭次は柱と洗濯物の間を通り、どこなら相手の顔が見えるか確かめた。布を持って歩く人も、ここなら一度だけ顔を向けられそうだった。
* * *
帰る前に、恭次はスミの籠を取りに行った。
スミは台の上から、ほかの布を見ていた。洗ったばかりでも、風で埃が付くことがあるという。恭次が、今日は君の相談ではないと答えると、参考までですと体を丸くした。
ゴーストが近づき、立ち会いの礼を言った。小屋の人と相談した謝礼は、物をしまう薄い袋だった。昨日の麦粉を入れた袋そのままではなく、未使用のものを少し分けてもらう。恭次は用途を確かめ、家で使う分だけ受け取った。
「叫ぶところも、試しますか」
恭次が最後に聞くと、ゴーストは首を振った。
「今日は、十分です」
ベルグが石から降りた。恭次は歩き出す前に、その顔へ目を向けた。
道へ出て振り返ると、女性が洗濯物を運ぶところだった。ゴーストは柱の前へ少しだけ姿を出す。女性が片手を上げ、白い腕も上がった。
悲鳴は上がらなかった。本人はそれを追いかけず、洗濯物の向こうから帰る恭次たちへも、同じように手を振った。




