第20話 出発前に帰ってきた
出発して最初に見たのは、家の門だった。
水筒の栓を閉めたあと、居間の卓上に置いた。その記憶だけが、道へ出た恭次の頭にはっきり浮かんできたのだ。
「すぐ戻る。ここで待っててくれ」
門を開け、家まで駆け戻った。鍵を出し、玄関を開ける。卓上には水筒を置いていた丸い跡があった。
水筒はなかった。
下にもない。煮炊きの一角にも、寝室にも置いていない。恭次が玄関から顔を出すと、ガンが庭の入口に立っていた。その太い腕の下に、水筒を抱えている。
「持った」
「ああ、そうだったのか。ありがとう」
昨日、分けて持つことにした。朝、最後に水を足したのは恭次だったが、運ぶところまで決まっていたのだった。
戸を閉めて門を出た。ケルベロスが3つの鼻を上げ、朝の空気を嗅いでいた。ハコもまだ重くなる前の速さで歩いている。
朝の鐘の音は、もう遠くなっていた。
門から角を曲がる手前で、今度はスミが籠の縁へ伸びた。
「替えの布は」
恭次は持っている籠を見た。敷かれている布はある。替えはハコに入れたはずだった。
「ハコ、昨日の布を出せるか」
「はい」
ハコが蓋を開く。畳まれた布が出た。
「こちらはベルグのです」
スミが言った。
恭次が広げると、小型竜の爪で押さえた跡があった。そういえば昨日、石の天板から外して最後に足した。
「スミのは、どこへ?」
「外布で包むと言ったところまでは覚えています」
ハコの区画から、他の荷物を出すわけにもいかなかった。道の端とはいえ、土の上だ。恭次は籠を持ち直した。
「俺が見てくる。ハコはそのままで」
家へ戻ると、替えの布は寝室の入口にあった。雨よけで包む前に、汚れがないか見た。確認した恭次が、そのまま置いた物だった。
戻ると、ベルグは道の端の石に載っていた。ヒダリは家の方を向き、ナカは宿へ向かう方を向いていた。胴体は動いていなかった。
「俺の置き忘れだった」
恭次は布包みをハコへ渡した。スミの目の前で受け渡し、ハコにどこへ入れたか見せてもらう。スミは籠へ戻るように体を低くした。
ベルグが石から降りるのを待ち、恭次は籠を持つ位置を変えた。家へ戻る時には軽く感じた腕が、道へ出て止まったままだと疲れる。
「みんな、休憩するなら今してくれ。俺も一度置く」
スミへ断って籠を平らな石へ戻す。ハコはその横で脚を曲げ、ケルベロスは伏せた。旅の途中の休憩ではなかったが、立ったまま待たせ続けるよりよかった。
恭次は出発時刻の紙を見た。朝の鐘で出ると、昨日自分で書いた。もうその時刻は過ぎている。
「少し遅れた。途中の休憩は、遅れを取り戻すために短くしない」
ミギが頷いた。ハコも、歩く速さを上げる予定はない、と言った。恭次は紙へ、出発前の確認時間を1行足してからしまった。
籠の中のスミが、替えの布は今あるのだから、もう取りに行かなくてよいですねと言った。恭次は笑って頷いた。恭次はハコの蓋の前で、空いた布包みの端を結んだ。
休んでいた者がそれぞれ起き、恭次も籠を持ち上げた。ガンは全員の荷物が揃うまで、門の方へ戻ろうとはしなかった。
今度こそ、と歩き出そうとしたところで、ガンが腕を動かした。
恭次はすぐ、その手を見た。水筒のほかに、紐で巻いた小さな包みを持っている。
「それ、何だ?」
「火打ち道具。外の休憩で、使うかと」
家の煮炊き場から持ってきた物だった。途中で火を使う予定は立てていない。昼は包んだパンと冷たいおかずで済むようにしてある。
それでも、恭次は礼を言ってから考えた。
恭次は、水筒と包みを抱えたガンの腕を見た。
「必要かどうか、今決めよう。もう家へ探しに行く前に」
ナカが3つの頭を代表するように顎を上げた。
「私は、出発してから戻るのはよくないと思う」
ミギが横から言った。
「出発する前に言えばよかった」
恭次は籠を、道端の平らな石の上へ載せた。スミへ先に声をかけ、持ち手を倒す。自分もその横へしゃがんだ。
「忘れ物がないかって聞くと、家に置いてきた物のことばかり考えるな。今、誰が何を持っているか教えてくれ」
最初に恭次が言った。鍵は鞄の手前の袋、金は内側、予約の返事と同行登録の控えは濡れない包み。肩には自分の着替え、腕にはスミの籠。
ハコは中の物を出さずに、順に挙げた。食事の包み、枕、敷物、ベルグの布、いま受け取ったスミの替え。雨よけと買い物用の小袋。それぞれ、取り出すところも教えてくれた。
昼食を食べる時に全部降ろさなくて済むよう、食事は上の方にしてある。昨日できた空きを、仕切りで埋め直してはいなかった。
「ケルベロスの器も、そこ?」
「1つの包みに3枚です」
ナカが頷いた。そこでミギが口を開きかけたが、3枚ならあると聞いて閉じた。
ベルグは何も持っていなかった。翼と脚を自由にして歩く。ガンは水筒を2本、火打ち道具を1包み。背負い袋の軽い雨よけも、自分の分として持っていた。
「火打ち道具は、今日は使わないだろうな」
恭次はガンに言った。
「戻すなら今、俺が戻す。それで最後にしたい」
ガンは包みを差し出した。
恭次は鍵を開けて入ると、火打ち道具を煮炊き場のいつもの場所へ置いた。戸の前を離れる前に、火が消えているのを見た。井戸の桶は上げたままにせず、庭の道具は屋根の下へ収めてある。
もう探し物はしなかった。
戸を閉めて錠を掛け、手を離す前に引いた。動かない。鍵を鞄の手前の袋に戻した。
門の向こうでは、ガンが水筒を持ち替えていた。腕が空いたので、途中で籠を持つ時には声をかける、と言う。
「ありがとう。頼む時に渡すよ」
恭次はスミの籠を持ち上げた。
その時、ガンがもう一度、短く声を出した。
「宿の手紙」
恭次の胸が少し沈んだ。
ガンは鞄を指した。
「持っていると、聞いた」
「うん。ここ」
恭次は鞄の内側を押さえて見せた。ガンが頷く。
今度は皆が歩き始めても、恭次だけ取り残されなかった。
草の生えた道端を、ハコが避けていく。スミの籠が傾かないよう、恭次も歩幅を抑えた。ケルベロスは前を行きすぎず、何度か鼻を横へ向けた。
やがて町外れの道が、街道へつながった。リネの屋根が少しずつ低くなる。
恭次は息を吐いた。先ほどより鞄は軽くない。家から離れた距離だけが、ちゃんと増えていた。
日向を少し歩いたところで、ガンが恭次の腕を見た。
「籠、持つか」
恭次はスミに聞いた。スミはガンが籠の底を水平に支えられるならと答えた。受け渡す前に、ガンが水筒を恭次へ渡す。どちらが何を持ったか、今度は全員の見えるところで入れ替わった。
「水筒、俺。籠、ガン」
恭次が言うと、ヒダリが首をかしげた。
「毎回言うの?」
「最初のうちは」
スミは籠の真ん中へ落ち着いた。ガンの腕は揺れが小さく、恭次より景色が低い。向こうの生け垣の隙間から、畑仕事へ出た人がこちらを見ていた。恭次が会釈すると、その人も手を上げて仕事に戻った。
ベルグが草を避けて、道の内側へ移った。
「ところで、戸締まりは」
全員が、来た方を向いた。
リネの屋根は、もう道の曲がり角の向こうだった。
恭次は鞄の手前へ手を入れた。指先が鍵に触れた。さっき戸を引いた時の、錠の止まる手応えを思い出す。
「閉めた」
言ってから、もう一度前を向いた。
今度は、誰も帰らなかった。




