第1話 : 信じたのは、眠りだった
来たのはいいけれど、ここがどこなのかさっぱりわからない。いわゆる「絶賛迷い中」というやつだ。
駅を降りたとき、目の前には月光も全く差し込まないような森(おそらく昼でも暗い)不気味なだけの景色が広がっていた。
けれど街に着くと、街灯や建物の明かりがぽつぽつと灯り、まるで別世界に来たかのような気分だ。
「……立ち尽くしていても埒が明かないな」
自分はとにかく歩いてみることにした。
川沿いの道、煌々と照らされた街角、静まり返った裏路地、ざわつく商店街。
少し歩くだけで、まるで早足で切り替わる舞台のように、周囲の風景がめまぐるしく変わっていく。
そのせいで、どうにも頭がくらくらした。
フードを目深に被っているせいで、前がよく見えない。それでも、体を左右に揺らしながらなんとか歩く。
「あっ…」
ドンッ、と誰かにぶつかって、バランスを崩した。地面に倒れ込むかと思った瞬間、感じたのは冷たい石ではなく、温かい人肌だった。
「君、大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
「だ、誰…?」
知らない中年の男性に話しかけられ、思わず警戒する。がっしりと掴まれた腕に、反射的に力が入った。
「親はいないのかい? お巡りさんのところに行こうか?」
「だ、だいじょうぶですから…」
『オ腹、空イタ。血ガ欲シイ』
頭の奥から、本能の声が囁く。
「髪が汚れて、まるで魔族の黒髪みたいになってるじゃないか。ん?……ヨダレに…牙?……まさか、吸血鬼!?」
…しまった。
男性の腕を無理矢理振りほどき、自分は明かりの届かない暗がりへと逃げ込んだ。
♢ ♢ ♢
ふらつく足で辿り着いたのは、街灯が弱々しく照らす静かな一角。吸い寄せられるように、そこへ向かっていた。
壁に手をついてしゃがみ込むと、自然と肩が落ちる。
「疲れた…」
さっきまで垂れていたよだれは気づいたら止まっていた。近くに人の気配がなくなったからだ。
…本で読んだ事はあったけど、吸血鬼と分かった途端、あんな顔されるのか。
警戒心を露わにした、まるで害獣を見るような鋭い瞳を思い出す。
「…これから、どうすればいいんだ?」
所持金はほとんどない。行くあてもない。衝動だけで飛び出してきて、今さら立ち止まっている。
…昔のような体力がない。
それが、ひどく悔しかった。訓練に付き合ってくれていたあの頃は、あれほど動けたのに。今はただうずくまることしかできない。
「…訓練をしていた?はぁ…記憶が曖昧すぎる」
また、忘れている。
まるで頭に霧がかかっているように思い出せず、それが自分に不快感を与えてくる。
昔、記憶を失くすくらいショックな出来事でもあったのだろうか。思い出そうとしても頭痛がしてくるから、あまり積極的には思い出す事をしていない。
…とにかく、お金を手に入れないと。でないと、ここで生きていけない。
ぼうっと道を見つめていると、また睡魔が襲ってきた。頭がぐらりと揺れる。
「ここで寝たら、下手したら凍死だな…」
春になったばかりとはいえ、まだ夜は冷える。防寒はしたつもりだが、縮こまらないと体がどんどん冷えていく。
炎魔法で暖をとることも考えたが、魔力は温存しておきたい。今魔力を使って、もしものときに動けなくなったら意味がない。
凍死してしまうかもと思っても、どうしても寝たくなってしまって目を一度強く瞑った。
目をぎゅっと瞑ると、意図せず他の感覚が研ぎ澄まされる。
…血の匂い。
冷たい夜風に混じって、かすかに漂ってくる、人の血の匂い。吸血鬼の本能か、あるいはただの習性か。体が反応して、自然と匂いの方向へと足が動き始める。
「…大丈夫。血は、絶対飲まない」
そう自分に言い聞かせながら、こちらに漂ってきた血の匂いを辿る。
暗くなればなるほど、その匂いは濃くなっていく。
「ヒトの声…二つ。女の子と、複数の男…?」
女の子の悲鳴。そして、下品な怒鳴り声。
角を曲がると開けた場所で数人の男たちがたむろしており、その中央に女の子が怯えていた。ただ、それ以外は暗すぎてよく見えない。
…明らかに、これはダメなやつだよな。
見なかった事にしてこの場を後にするのは簡単だ。
ジッ…
『生きる価値もない、役立たず』
ジジッ…
しかし、そうすればきっと、頭に響く雑音が酷くなる。
…早く、助けないと。
自分は再度フードを深く被り直す。
雲が晴れて、月光に照らされて視界が良くなったその場所に、ふわりと足を踏み入れた。
「女の子を囲んで何をしてるんですか。怯えてますよ」
できるだけ穏やかな口調で、刺激しないように言ったつもりだったが、どうやら失敗したようだ。
「誰だオメェ!ここは俺らのシマだ!入ってくんじゃねぇ!」
ピアスをジャラジャラさせた男たち。威圧的な声に思わず眉をひそめる。
「えぇ…。流石に理不尽が過ぎる」
つい、ポロっと本音が漏れてしまった。それが気に障ったのか、男の額に血管が浮かび、叫び声が響く。
「お前らぁ! この女を取られるな! こいつは富豪に売れば高く売れる!取られる前に殺すぞ!!」
「おおおう!! かかれぇ!!」
大きく威圧的な大声を上げたなと思ったら、本当にただ無駄に大声を上げただけだった。
威勢がいい大声だが、動きは鈍い。殴ってきた腕をひょいと避けると、勢い余って勝手に転んでしまった。
「えっ、遅っ…」
拍子抜けするほどだった。まるで体感がない。これが”いかついだけ”というやつか。いや、これは"見かけ倒し"と言うのか。
「…勝手に倒れたのだが。…うん、これは正当防衛。気絶だけなら優しいほうだろ」
自分に言い聞かせるように呟く。相手と違って、こちらは命までは奪おうとはしていない。
「俺らの仲間に手ェ出しやがって!ぶちのめしてやる!」
また別の男が襲いかかってくるが、動きは読める。回避は簡単だ。
「女の子に寄って集って群がっておいて、その言いぐさはないだろ!!」
♢ ♢ ♢
「ぐあぁっ……!」
最後の男が弱い呻き声を上げて崩れ落ちた。倒れた者たちは、地面に突っ伏して全員気絶している。
「…やっぱり、生身のヒトって他種族より弱いんだな」
しかし、"自分が知っている唯一の人間"が、そこらの人間と桁違いで異常だっただけだろうと思い直す。
疲労がどっと押し寄せて、また唾液が滲む。
人間の血の匂いが滲むこの場所は危険だが、もうここから歩ける気がしない。
甘い血の匂いの先には、まだ震える少女がいるが、これ以上自分ができる事はなにもない。
…おそらく、あの少女に近づくだけで自分の理性は吹き飛ぶはずだ。
研究所から必死で逃げて、疲れのせいか数発強い拳をくらってしまった。だからか、街に来た時よりも『血が欲しい』と囁く声が頭に重く響く。
ガリリッと自分の腕を爪で引っ掻く事でなんとか理性を保つ。
「眠い…。うん、そうだ寝よう。そうしよう」
少し変なテンションになっているのを自覚しつつ、地面に手をつくと、服の袖が血で少し濡れた。だが、そんなことはもうどうでもよかった。
倒れた男たちは全員気絶している。しばらくは目を覚まさないだろう。なら、今は眠っても問題ない。
取り敢えず体を回復させる方を優先する。
くるるる、と小さく腹が鳴る。血をくれと、体が叫んでいた。
このまま眠れば、飢えも衝動も一度は収まるはずだ。
血を欲しい、なんて考えなくなる。
そう信じたいだけかもしれないが、今はもう、考える余力がなかった。
必要最低限のことだけ考え終わると、思考がどんどんボヤけて、ふわふわとしたまるで夢のような感覚がしてくる。
「し、しな…いでください!ここで寝ちゃ…ダメだよ!」
視界が曖昧になっていく中、女の子の高い声が自分にかけられた気がした。けれど、まぶたは重く開けることができない。
ふわりと体が浮く感覚。そして、背中に誰かの手が触れた。
運ばれている。
危険だ、逃げなければ、と思った。
しかし、理解してもなお、もう自分の意識は深い眠りの中へと沈んでいった。




