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第二十六章

 「まだ若かったころ、儂は東京で歯医者の助手をやっていたんじゃ。

 ちょうどお昼の時間だったと思う。突然地面がすさまじい勢いで揺れ始めてな。3度目の大きな揺れで病院が崩れそうになって、儂や医者や患者たちは命からがら外に逃げ出したんじゃ」


 1923年9月1日。相模湾北西部を震源とする、マグニチュード7.9の巨大地震が首都圏を襲った。家屋倒壊や火災で甚大な被害が発生し、死者は10万5千人に上ったと言われている。いわゆる「関東大震災」だ。



 誉が話を続けた。


 「ほっとしたのも束の間、倒壊した建物のあちこちから火が出てきた。ちょうどお昼時でみんな飯の支度をしていたんじゃ。

 辺りは見る間に真っ黒な煙と真っ赤な炎に包まれた。儂らは煙と火のない方へと必死に逃げたよ。

 そのうち病院にいた連中とは一人また二人とはぐれてしまい、いつしか儂はたった一人で広い畑にたどり着いたんじゃ。炎にあぶられて熱いし余震も続いているから、儂は畑の真ん中に頭を抱えて座り込んだ。

 同じように畑に逃げ込んだ人は他にもちらほらいてな。ちょっと離れたところには小さな女の子を連れた母親がいて、泣きじゃくる娘を一生懸命あやしておった」


 誉がふうっと息を吐き、目をつぶった。疲れたのかと思ったが、再び誉は話し始めた。


 「この日は風がとても強くてな。しかも時間を追うごとに風向きがどんどん変わっていった。天まで延びる火事の炎が突風にあおられて、いきなり向きを変えて人間を襲うんじゃ。あれは怖かった……。

 しかも地震が起きて5時間経っても、火事がおさまる気配はまるでなかった。強風に乗った炎はいつ自分たちのところに来るかもわからない。水もない。食べ物もない。焦げた大気で肌が焼けて痛い。

 畑に逃げ込む人の数は増える。ひどい火傷を負ってうめき声をあげている人もいる。まさに地獄絵図じゃった」



 哲治がぶるっと震えた。誉はそれに気づき、哲治の手を優しく握り返した。そして話を続ける。


 「そこへ、たった今火から逃げて畑にやってきた男たちが突如大声で怒鳴り始めたんじゃ。


 『在日が火をつけた!』


 『日本でクーデターを起こそうとしている!』


 『在日は許すな!』


 奴らは口々に叫んで、さっきの母親と娘を指さし、ぐるりと周囲を取り囲んだんじゃ。

 震え上がった母親は娘をしっかりと抱きしめて守ろうとした。


 すると目の前に立った男が


 『天誅!』


と叫んで、母親の頭を持っていた棒でいきなり殴りつけた。

 そこから先はリンチじゃった。5、6人の男たちに暴力を振るわれた母親と娘は、あっという間に血だらけになって、ぐったりと地面に倒れこんでしまった。


 この突然起きた悲惨な出来事に、頭が追いつかなかったのかもしれん。儂やそばにいた人たちはみんなしびれたように固まって、ただ眺めることしかできんかった」



 誉の頬をつうっと一筋の涙がこぼれた。かすれた声で誉が続ける。


 「そのときじゃ。拳を血だらけにした男たちの一人が、血走った目で儂を指さして、


 『あいつも在日だ!』


と叫んだんじゃ。

 歯医者で着ていた白衣が朝鮮の正装に見えたらしい。

 儂は焦って


 『違う! 日本人だ!』


と叫んだが、パニックに陥った人間の耳には何も届かん。

 火の中へ逃げだそうとした儂を駆け寄ってきた男たちが引きずり倒した。儂は亀のように丸まったが、男たちは角棒や拳で殴り、そして横腹を何度も蹴り上げた。

 体中が痛みで悲鳴を上げるなか、胃からゴボッという嫌な音がして、儂は口から大量の血を吐き出した。


 ―殺される!―


 そう感じた瞬間、儂は延髄を角棒で殴られて、ついに気を失ってしまったんじゃ。



 意識を取り戻したのは夜もとっぷりと更けた頃じゃった。

 儂は体中の痛みに耐えながら、口に溜まった血を吐き出し、やっとこさ地べたに座りなおした。

 空は赤く燃え上がっていたが、辺りの火事はかなり小さくなっていて、あれほど吹き荒れていた風も弱まっていた。さっきまでたくさんの人がいた畑には、もうわずかな人しか残っておらんかった。

 赤黒い空をぼんやりと眺めていると、自分が生きている実感が湧いてくる。気がつくと、両目から涙がボロボロと流れ落ちていた。



 そこに小さな声が聞こえてきた。振り向くと、さっきの親子がまだ同じ場所に倒れていて、小さな女の子が母親に呼びかけているんじゃ。


 必死の思いで立ち上がり、びっこを引きながら二人のもとに近寄ってみて、儂はぎょっとした。

 母親はすでに亡くなっており、その横に倒れている娘は顔を殴られて目が潰れていた。起き上がる力もなく、その子は母親の服を引っ張り続けていたんじゃ。

 儂が女の子を抱きあげようとしたら、その子が急にぐったりとして動かなくなってしまった。みるみる冷たくなる体に触れて、もうこの子が助からないことがわかった。



 儂は女の子の亡骸に抱きついて、声を上げて泣いた。


 と同時に、弱いものを虐げるこの世界の理不尽さに震えた。


 そして湧き上がる激しい怒りと共に誓ったんじゃ。



 儂はこの世界で生きられない

『弱いものを守る砦になる』と。



 そこから高藤組が始まったんじゃ……」


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