第三十八話 神が宿りし時
少女――山神カルタは、家長を抱きかかえる夕陽の前へゆっくりと膝をついた。
「やっと会えたね」
山神は、穏やかな声でもう一度告げる。
「リリ先輩」
夕陽は涙で濡れた目を向けた。
「……あなたは誰?」
「私は山神カルタ」
少女は自らの胸へ手を当てる。
「……私は先輩なの?」
「……先輩なんて言いましたっけ?」
とぼけたような口調でそう言いながら山神は自己紹介を続ける。
「私は烏天狗の神様であなたのことをずっと天界から見守っていました」
「神様……?」
夕陽は呆然と呟いた。
理解が追いつかない。
突然時間が止まり、空から翼を持つ少女が現れ、自分のことを先輩と呼び、終いには神だと名乗っている。
普段の夕陽なら、まず相手を疑っただろう。
しかし今は、そんな余裕などどこにもなかった。
夕陽は腕の中の家長へ視線を落とす。
目を閉じたまま動かない。
制服は赤く染まり、呼吸もほとんど感じられない。
「家長を……」
夕陽は震える声で言った。
「助けて」
山神は黙って夕陽を見つめる。
「神様なんでしょ……?だったら、家長を助けてよ」
「夕陽さん」
「早く!」
夕陽の声が静止した空間へ響く。
「今すぐ助けて!」
山神は目を逸らさなかった。
その沈黙が、夕陽の心をさらに乱す。
「どうして何もしてくれないの……?ずっと見てたって言ったよね…だったら、どうしてもっと早く来なかったの?」
涙が次々と頬を伝う。
「教室にクヲンが来た時でも、勇気ちひろが来た時でも、私が戦えなくなる前でも……もっと早く来てくれてたら、家長はこんなことにならなかった!」
夕陽自身にも、自分が何を言っているのか分かっていなかった。
目の前の少女に責任がないことは頭では理解している。
それでも、感情が止まらない。
「私が強ければ、家長は……」
夕陽は家長の身体を強く抱きしめる。
「また救えなかった」
脳裏にドーラの姿が蘇る。
そして今も誰かが傷つく未来を防げなかった。
「私の力って何なの……未来が見えても何も変えられないこんな力、何の意味があるの……!」
「夕陽さん」
山神は静かに名前を呼ぶ。
「やめてよ……私はもう……」
「……」
何も言わず山神は夕陽の身体を抱きしめた。
突然の温もりに、夕陽の言葉が止まる。
黒い翼が、夕陽と家長を包み込むように広がった。
山神は何も否定しなかった。
夕陽の責任ではないとも、泣くなとも、強くなれとも言わなかった。
ただ、その震える身体を受け止め続けた。
「ごめんね」
山神が小さく呟く。
夕陽の目が僅かに開く。
「私はずっと、あなたを見守ってた。笑ってる時も、怒ってる時も、一人で無理をしてる時も、未来を見たせいで誰にも言えない恐怖を抱えてる時も」
山神の腕に力がこもる。
「本当は、何度も会いに行きたかった」
「じゃあ……どうして……」
「神様にも、守らなきゃいけない決まりがあるから」
山神は夕陽の背中を優しく撫でる。
「天界にいる神は、人間の世界へ自由に干渉できない。誰か一人を助けるために地上へ降りれば、その人の運命だけじゃなく周りの運命まで変えてしまう。だから、ただ危険だからという理由だけでは、私は君の前に現れることができなかった」
夕陽は黙って聞いていた。
「私が地上へ降りることを許されるのは、私と強い縁を持つ人間の心が、本当に壊れそうになった時だけ。その人が絶望して、二度と立ち上がれなくなるかもしれない時」
「私はその時だけは、君の元へ行くことを許されていた」
「……私が壊れそうだったから?」
「うん」
山神は夕陽から少し身体を離し、真正面から見つめる。
「家長むぎを助けられなかったことだけじゃない。ドーラを救えなかったことも、剣持刀也や仲間たちを守れないかもしれないっていう恐怖も、あなたは全部自分一人の責任にしようとしてた」
山神は夕陽の頬に残った涙を指で拭う。
「これ以上、一人で抱えたら君はきっと、未来を見ることも、誰かを守ることも怖くなってしまう」
「だから来た、君を助けるために」
夕陽は唇を噛んだ。
「でも……」
家長へ視線を落とす。
「私だけ助かっても意味がない、家長が死んだら……」
「まだ死んでないよ」
夕陽が勢いよく顔を上げる。
山神は家長の胸元へ手を伸ばした。
その掌から淡い光が放たれる。
「本当に僅かだけど、命は残ってる。でも、このまま時間を動かせば助からない」
「じゃあ、どうすれば……!」
「方法はある」
山神は真剣な表情で夕陽を見る。
「ただし、その方法を選べば、あなたの人生は大きく変わる」
夕陽は迷わず答える。
「何でもする」
「まだ説明してないよ」
「家長を助けられるなら何でもいい」
夕陽の即答に、山神は僅かに目を伏せた。
そして覚悟を決めたように話し始める。
「君の知っている剣持刀也君。彼の中には今、神に近い存在が宿っていることは知っているでしょう?」
「……伏見ガク」
夕陽も剣持から詳しい事情を聞いていた。
伏見が剣持へ憑依し、その身体を通して現世へ力を及ぼしていることを。
「彼と同じことをする。あなたの身体へ憑依して、神通力を分け与える」
夕陽は目を見開く。
「神様の力を……」
「私自身は地上へ長く留まれない。でも、君の身体に宿れば君を通して力を使うことができる
「私の神通力には、生命力を高める力がある。失った血や傷そのものを全て元通りにすることはできないけど、家長むぎの消えかけた命を繋ぎ止めることはできる」
その言葉を聞いて希望が見えた、ほんの僅かでも。
夕陽にとっては、それだけで十分だった。
「やる」
再び即答する。
山神は悲しそうな笑みを浮かべる。
「一度憑依したら、あなたはこれから一生私と離れられなくなるし、私の力を使えば身体にも大きな負担がかかる」
「それでもいい」
夕陽は山神をまっすぐ見つめた。
「家長を助けられるなら…もう一度、みんなと一緒に笑えるなら」
その瞳に迷いはなかった。
山神は静かに微笑む。
「分かった。これからよろしくね、ゆう……リリちゃん」
黒い翼が大きく広がる。
無数の羽が夕陽の周囲を舞い始めた。
山神の身体が淡い光へ変わっていく。
その光は夕陽の胸へ吸い込まれるように消えていった。
一瞬の静寂。
そして。
『聞こえる?』
頭の中から山神の声が響く。
夕陽は小さく頷いた。
「聞こえる」
『今から時間が動いちゃうから家長むぎの胸へ手を当てて』
夕陽は言われた通り、家長の胸元へ右手を置いた。
掌から、黒い羽を含んだ柔らかな光が溢れ出す。
『君の未来視と同じ。力を無理に押しつけるんじゃなくて、助かる未来へ繋げることを意識して』
「助かる未来……」
夕陽は目を閉じた。
もう一度、日常へ戻る未来。
「絶対に死なせない」
止まっていた世界が動き出した。
風が吹き、木々が揺れる。
空中で静止していた血が地面へ落ちる。
夕陽の掌から放たれた神通力が、家長の全身へ流れ込んだ。
「お願い……!」
光が強くなる。
家長の傷口から流れていた血が徐々に弱まっていく。
消えかけていた呼吸が、僅かに戻る。
胸が小さく上下した。
「……息をした」
鈴谷が声を震わせる。
「むぎ先輩が……!」
三枝も何が起こっているのか分からず、夕陽を見つめる。
「リリ先輩、その力……」
「説明は後」
夕陽は家長の脈を確認する。
弱い。それでも、確かに生きている。
『命は繋いだよ』
山神の声が頭の中へ響く。
『でも傷は深い。すぐに治療しないと危険なのは変わらないから』
「分かってる」
夕陽は三枝へ顔を向ける。
「家長を動かさないで、救助が来たら最優先で治療してもらって」
「は、はい!」
安堵する間もなかった。
校舎の壁が爆発する。
轟音と共に瓦礫が飛び散り、その中から箒へ乗った少女が飛び出してきた。
勇気ちひろ。
「やっと追いついた」
その背後には、無数の銃が浮かんでいる。
夜見の時間稼ぎを突破したのだ。
「もう鬼ごっこは終わりかな?」
ちひろの視線が天宮を捉える。
「その子を渡してもらおうか」
夕陽はゆっくりと立ち上がった。
エニカラから支給された戦闘用ソードを握る。
体力はほとんど残っていない。
未来視を酷使した目も激しく痛む。
それでも、先ほどまでとは違う力が身体の奥から湧き上がっていた。
黒い羽が夕陽の周囲を舞う。
「渡さない」
「しつこいなぁ」
ちひろが困ったように眉をひそめる。
周囲の銃口が一斉に夕陽へ向く。
『来るよ』
山神の声。
夕陽の右目が未来を映す。
銃弾が放たれる角度と着弾する場所、ちひろが次に動かす銃。
全てが見える。
「今度は」
夕陽は剣を構えた。
「未来を見るだけじゃない」
銃声が鳴り響く。
夕陽の背中から、黒い翼が一瞬だけ現れた。
身体が宙へ浮かび、銃弾の隙間を縫うように飛翔する。
「なに!?」
ちひろが銃口を動かす。
しかし夕陽は、その動きすら未来視で先に見ていた。
『右に三歩』
山神の神通力が、夕陽の身体能力を引き上げる。
夕陽は空中で身体を捻り、数十発の銃弾を回避した。
そのままちひろとの距離を詰める。
「速――」
剣を振るう。
ちひろは箒を傾け、紙一重で回避する。
夕陽は着地と同時に地面を蹴った。
「逃がさない!」
再び未来を見る。
「っ!」
剣の峰が、ちひろの脇腹を捉えた。
「ぐっ……!」
ちひろの身体が箒から落ちる。
だが、空中の銃は消えない。
倒れながらも指を動かし、夕陽の背後へ銃口を向ける。
『後ろ!』
夕陽は振り返らず、神通力を込めた翼を広げた。
突風が巻き起こる。
銃弾の軌道が僅かに逸れ、夕陽の横を通過する。
「ふざけんな!」
ちひろが立ち上がる。
周囲へさらに多くの銃を召喚する。
「全部まとめて撃ち抜く!」
「させない」
夕陽の右目に、戦いの結末が映る。
無数の銃が一斉に放たれる直前。
僅かな一瞬、ちひろ自身を守る銃がなくなる瞬間。
そこへ向かって走る。
銃声。弾丸の嵐。
黒い羽を纏った夕陽は、未来に示された一本の道だけを進んだ。
頬を弾丸が掠め、肩が裂ける。
それでも止まらない。
「はあああっ!」
夕陽は銃の包囲を突破する。
「なっ――」
剣の柄を、ちひろの腹部へ叩き込んだ。
鈍い衝撃音と共にちひろの身体が浮き上がる。
続けて神通力を込めた掌底を胸元へ放つ。
「がっ……!」
ちひろは地面を転がり、そのまま動かなくなった。
浮かんでいた銃が一斉に消える。
夕陽は荒い息を吐きながら剣を下ろした。
「終わった……」
『夕陽、まだ気を抜かないで』
「分かってる……」
そう答えながらも、視界は大きく揺れていた。
肉体も精神も、既に限界を超えていた。
◇
同時刻。
校庭では、巨大な矢車りねがゆっくりと地面へ倒れていた。
ズズズズズン――!
地響きと共に砂埃が舞い上がる。
その隣では町田ちまが拘束され、意識を失っている。
矢車の身体は既に元の大きさへ戻っていた。
ダイカガミの操縦席から降りた加賀美は、二人の状態を確認する。
「両名とも生存、拘束も完了しました」
通信機から救助隊の返事が聞こえる。
加賀美は校舎へ視線を向けた。
「夜見さん、葉加瀬さん。状況を報告してください。」
しかし、夜見からの返事はない。
代わりに葉加瀬から通信が入る。
『加賀美さん!校庭のクヲンはほとんど倒しました!』
葉加瀬は、最後の一体へ薬品を投げつける。
爆発と共にクヲンが黒い霧へ変わる。
「はぁ……はぁ……」
葉加瀬の周囲には、倒されたクヲンたちの痕跡が残っていた。
知性的な動きを見せていた三体も、既に撃破している。
その奥、植え込みの影から椎名唯華の姿が見える。
「やられたし…帰ろ」
椎名は面倒そうに立ち上がり誰にも気づかれないままその場を後にした。
その時、校舎裏から大きな戦闘音が響いた。
「まだ誰か戦ってる……?」
加賀美も音を聞き、葉加瀬の元へ駆けつける。
「行きましょう」
「はい!」
二人が校舎の裏へ回る。
そこで目に入った光景に、足を止めた。
地面へ倒れている家長むぎ。
その傍で心配そうに見守る三枝、天宮、鈴谷。
少し離れた場所には、戦闘不能になった勇気ちひろ。
そして、黒い羽を周囲へ漂わせながら立つ夕陽リリ。
「夕陽さん……?」
加賀美が声をかける。
夕陽はゆっくりと振り返った。
顔色は青白く、立っていることさえ不思議な状態だった。
「加賀美さん……」
「その力は一体――」
「家長を」
夕陽は加賀美の言葉を遮る。
「ここで倒れたいる彼女を先に助けてください。深い傷を負ってます、今は何とか命を繋いでますけど早く治療しないと……」
加賀美はすぐに家長の元へ駆け寄る。
脈を確認し、通信機を取った。
「重傷者を一名発見!直ちに医療班を校舎裏へ!」
葉加瀬も家長の傍へ膝をつく。
「呼吸はあるので、まだ助けられます!」
夕陽は安堵したように僅かに息を吐く。
そして、校舎を指差した。
「後、中に……夜見さんが残ってます。彼女も怪我を……」
「分かりました」
加賀美は力強く頷く。
「夜見さんは私が助けに行きますので夕陽さんも、もう休んでください」
「はい……」
夕陽は小さく答える。
その瞬間、身体から力が抜けた。
「夕陽さん!」
加賀美が手を伸ばすより早く、夕陽はその場へ崩れ落ちる。
葉加瀬が慌てて抱き止めた。
「夕陽ちゃん!」
返事はない。
神通力を使い果たし、意識を失っていた。
『よく頑張ったね』
薄れていく意識の中。
山神の優しい声だけが響く。
『後は、私たちも少し休もう』
夕陽の周囲を漂っていた黒い羽が、静かに消えていった。
◇
同時刻。
二次三次市から遠く離れた場所。
建物も人も、巻き込まれるものも何一つ存在しない広大な荒野。
剣持刀也は竹刀を構え、正面の男を睨んでいた。
葛葉は赤い瞳を輝かせながら、楽しそうに笑っている。
「ここなら誰も邪魔しねぇな」
剣持は周囲を確認する。
教室から離れたことで、一般人が巻き込まれる危険はない。
その代わり、学校に残った天宮たちが気がかりで仕方なかった。
「僕を学校から引き離して目的は達成できたかな?」
葛葉は肩をすくめる。
「さあな、俺はお前と戦えればそれでいい」
剣持は竹刀を握る手へ力を込める。
学校へ戻るには、目の前の葛葉を倒すしかない。
「早く終わらせる」
「結構言うじゃん」
葛葉の周囲へ赤黒い力が集まっていく。
空気が震える。
剣持も伏見の神力を全身へ巡らせる。
身体能力が一気に引き上げられ、足元の地面へ亀裂が走る。
学校を巻き込んだ戦い。
その最後にして、最も激しい戦いが。
今、始まろうとしていた。




