第二十話 超速の女
控室に張り詰めた空気は、まるで時が止まったかのように静かだった。
壁にもたれかかった甲斐田は荒い呼吸を繰り返し、雨森小夜は状況を理解できないままその場に立ち尽くしている。
その中央で、剣持刀也と早瀬走だけが互いの動きを探っていた。
早瀬は一歩だけ前へ出る。
その表情には焦りも殺気もない。
あるのは「仕事を片付ける」という程度の気楽さだけだった。
「悪いけどな」
コテコテの関西弁が静かな控室に響く。
「ウチ、あんたの能力知っとるんよ」
剣持の瞳がわずかに細くなる。
エニカラ内部でしか知らないはずの情報。
それをゲーマーズが把握している。
つまり――情報が渡っている。
「触れられたら終わり。最強やな――ただ……」
早瀬は肩を竦めた。
「ほな、触らせへんかったらええだけや」
その瞬間、姿が消えた。
「──っ!」
剣持が反応した時には、衝撃だけが腹部へ突き刺さっていた。
鈍い音。
身体が横へ吹き飛び、控室の壁へ叩き付けられる。
痛みを感じる暇もない。
今度は背後。横腹。肩。顔。
四方八方から衝撃だけが襲ってくる。
「ぐっ……!」
目では追えない。
音より速く拳が届く。
これが早瀬走のライバースキル『超速』だった。
人間の認識速度を完全に置き去りにする、一撃必殺の加速能力だった。
早瀬は止まらない。
走る。殴る。離れる。また走る。
その一連の流れが一秒にも満たない。
「どないしたん?」
声だけが違う場所から聞こえる。
「そんなんじゃ当たらへんで?」
剣持は竹刀を構え直す。
視線では追えない。
ならば耳や空気、床の振動。
僅かな違和感へ神経を集中させる。
『刀也君。』
伏見の声が響く。
『見ようとするな。感じろ。』
「……分かってる」
呼吸を整える。
次の瞬間、右の床が軋む。
剣持は迷わず竹刀を振り抜いた。
乾いた衝突音。
竹刀が拳を受け止める。
「……お?」
初めて。
早瀬の攻撃が止まった。
しかし、それも一瞬。
「ええやん」
笑う。
姿がまた消える。
今度は蹴り。
続いて肘打ち。
背後からの掌底。
攻撃の角度が次々と変わっていく。
防げる。
だが届かない。
剣持の竹刀は空を切るだけだった。
(防ぐだけじゃ……。)
意味がない。
能力は接触が条件。
一度でも触れられれば『虚空』が発動できる。
だが。
その一度が果てしなく遠い。
「終わりや」
早瀬が距離を取る。
床を蹴る。
これまでより深く。
速い。
一直線。
剣持へ向かって最大加速へ入る。
その時だった。
「……今だ」
小さな声。
控室の隅。
倒れていた甲斐田が、ゆっくりと顔を上げていた。
立つことさえ辛そうな身体。
腕は震え、呼吸も乱れている。
それでも彼は密かに床へ手を這わせ続けていた。
誰にも気付かれないように。
小さな金属球を。
一つ。
また一つ。
控室の床へ転がしていた。
彼のライバースキルは『爆弾』。
今作れるものの威力は小さい。だが、罠として使うには十分だった。
「……爆ぜろ」
甲斐田が指を鳴らす。
早瀬の進路上。
床に転がっていた小型爆弾が同時に炸裂した。
連続爆発。
轟音。
煙。
床が砕ける。
「しまっ──」
超高速で走る身体は急には止まれない。
爆風へ自ら飛び込む形になった。
身体が弾かれる。
速度を殺しきれず壁へ激突する。
「かはっ……!」
早瀬が初めて苦しそうな声を漏らした。
剣持はその瞬間を見逃さない。
(そうか。)
頭の中で全てが繋がる。
早瀬は速すぎる。
だからこそ止まれない。
曲がれない。
急激な状況変化へ対応できない。
『超速』は万能ではない。
身体能力を限界まで引き上げる代わりに、自分自身ですら速度を完全には制御できていない。
真正面からなら無敵。
だが、予想外の障害には弱い。
「なるほど」
剣持は静かに竹刀を握る。
「君も能力に振り回されてるんだな」
煙の中から早瀬が立ち上がる。
肩から血が流れている。
それでも笑った。
「もう勝ったような気になっているんか?」
口元を拭う。
「残念やけど」
再び床を蹴る。
「次は外さん」
最後の勝負だった。
早瀬が一直線に駆ける。
剣持も前へ出る。
避けない。
真正面。
互いが一直線に距離を詰める。
その瞬間。
剣持は竹刀を投げ捨てた。
「なっ──!?」
予想外の行動。
早瀬の判断が一瞬だけ遅れる。
その一瞬。
剣持は身体を半歩だけずらした。
拳が肩を掠める。
激痛。
それでも止まらない。
互いの身体がすれ違う。
剣持はその勢いのまま右手を伸ばした。
指先が。
早瀬の腕へ触れる。
「──『虚空』」
世界が静かになった。
早瀬の身体から、一瞬だけ風が消える。
次の瞬間。
高速移動を失った身体は勢いだけを残し、前方へ大きく転がった。
何度も床を転がり、壁へぶつかってようやく止まる。
「……あぁ」
早瀬は仰向けのまま天井を見つめ、小さく笑った。
「これは負けたわ」
立ち上がろうとするが、もう足は動かない。
足が動かなければ今の彼女は無力の等しい。
剣持もその場へ膝をつく。
肩で息をしながら、震える右手を見つめる。
――勝てた。本当に紙一重だった。
おそらくあと一歩届かなければ、倒れていたのは剣持だった。
控室には静寂が戻る。
だが、それは戦いの終わりではない。
剣持はゆっくりと顔を上げる。
「甲斐田さん。雨森さんを連れて、すぐ逃げましょう」
巨大クヲンとの戦闘音がまだ鳴り響く、まだ終わっていない。
そしてゲーマーズが送り込んだ敵は、まだ一人残っていることを、剣持は知らなかった。




