第十八話 陽動
休日の昼。
街一番の大規模アリーナは、開演前から熱気に包まれていた。
会場の外には限定グッズを求める長い列ができ、親子連れや学生、年配のファンまで、年齢も性別も関係なく一人のレスラーを目当てに集まっている。
『マスクドいちから・スペシャルプロレスショー』
巨大な横断幕が風に揺れ、その下を通る観客たちの表情には期待が溢れていた。
「いやぁ……夢みたいっすよ。」
観客席へ向かう通路を歩きながら、三枝明那は何度目かも分からない感嘆の声を漏らした。
パンフレットを胸に抱え、会場を見回す姿は、まるで遊園地へ来た子どものようだった。
「あのマスクドいちからを生で見られるなんて……。今日死んでも悔いないっす。」
「縁起でもないこと言わないでよ。」
剣持は苦笑しながら答える。
しかし、その視線は三枝とは違う場所へ向けられていた。
観客。
スタッフ。
警備員。
搬入口。
非常口。
自然に歩きながらも、頭の中では会場全体の配置を確認している。
昨日、エニカラ本部で社から伝えられた言葉が、今も耳に残っていた。
『雨森小夜も会場入りする。警護は相羽隊が担当する予定だ。』
『お前は客として来い。何かあっても一般人として動け。』
建前は理解している。
だが、本当に何も起きない保証はどこにもなかった。
ゲーマーズが一度狙った標的を、そう簡単に諦めるとは思えない。
剣持は何気ない仕草で周囲を見渡す。
頭の中では伏見も静かだった。
『……刀也君。』
「分かってる。」
小さく返事をする。
三枝はレスラー紹介のポスターへ夢中で気付いていない。
普段なら伏見も冗談を飛ばしてくる。
だが今日だけは違った。
神である伏見も、この会場へ漂う僅かな違和感を感じ取っていた。
やがて照明が落ちる。
大歓声。
花火が打ち上がる。
リング中央へスポットライトが集まり、一人、また一人とレスラーが姿を現した。
会場が揺れるほどの歓声。
実況席の声。
リングを叩く音。
技が決まるたびに響く歓声。
観客全員が立ち上がるような大技の応酬。
三枝は完全に試合へ引き込まれていた。
「うわぁぁぁ!!」
「今の受け身見ました!?先輩!!」
「見た見た。」
剣持も自然と笑みを浮かべる。
純粋に面白い。
リング上でぶつかり合うレスラーたちからは、命を懸けて観客を楽しませようという覚悟が伝わってくる。
舞元――マスクドいちからがリングへ姿を現れた瞬間には、会場全体が一つになったような歓声が巻き起こった。
その姿を見つめながら、剣持は少しだけ肩の力を抜く。
ここまで何も起きない。
もしかすると今日は、本当に平和な一日で終わるのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった、その時だった。
――――ゴォン。
低く鈍い衝撃音が、天井の向こうから響いた。
誰かが何かを落とした。
そんな程度の音だった。
リング上のレスラーも、一瞬だけ動きを止める。
観客もざわめき始める。
二度目。
三度目。
今度は建物全体が震えた。
照明が揺れる。
天井の鉄骨から細かな埃が降り始める。
「……なんだ?」
誰かが呟いた直後。
轟音。
アリーナの屋根が内側へ向かって大きく吹き飛んだ。
鋼鉄の骨組みが悲鳴を上げる。
割れた天井から降り注ぐ瓦礫。
そして、その中心から姿を現した。
巨大な黒い腕。
続いて現れた全身は、過去に剣持が戦ってきたクヲンとは比べものにならない。
十数メートルはある巨体。
漆黒の装甲。
何本もの腕。
赤く光る眼。
咆哮一つで空気が震え、観客席のガラスが砕け散った。
「グォォォォォォォォッ!!」
悲鳴が一斉に上がる。
数万人の観客が出口へ殺到する。
転倒する人。
泣き叫ぶ子ども。
押し潰されそうになる老人。
数秒前まで歓声に満ちていた会場は、一瞬で地獄へ変わっていた。
「避難してください!!」
誰より早く動いたのは相羽だった。
観客席上段から一気に飛び降りる。
着地した床が砕けるほどの衝撃。
「長尾! 弦月!」
「了解!」
長尾は刀を抜き放ち、瓦礫を切り裂きながら避難経路を確保する。
弦月は縦笛へ口を添え、混乱する観客たちの恐怖を和らげる旋律を響かせた。
パニック寸前だった人々が僅かに冷静さを取り戻し、係員の誘導へ従い始める。
相羽隊は一瞬で役割を分担していた。
相羽が巨大クヲンを引き付ける。
長尾が迎撃。
弦月は避難支援。
完璧な判断だった。
だからこそ。
剣持は違和感に気付く。
「……違う。」
伏見も同時に呟いた。
『刀也君。』
「これは。」
剣持の視線がリングではなく、そのさらに奥へ向く。
舞台裏。
関係者しか入れない控室。
「陽動だ。」
巨大クヲンをここへ送り込めば、当然エニカラは最優先で一般人を守る。
相羽隊も、今は目の前の怪物へ全戦力を割くしかない。
つまり。
雨森小夜の警護だけが、一瞬薄くなる。
「三枝!」
剣持は立ち上がる。
「あの人たちの指示に従ってな!」
「え、先輩!?」
返事を待たず、人混みを掻き分けて走り出す。
控室へ続く通路。
人気の消えた廊下には、遠くから響く悲鳴だけが反響していた。
剣持は速度を上げる。
あと少し。
曲がり角を抜ければ控室。
その瞬間だった。
「急ぎすぎじゃね?」
聞き覚えのない青年の声。
廊下の中央。
壁へ背中を預け、一人の男が立っていた。
白銀の髪。
気怠そうな赤い瞳。
片手をポケットへ突っ込んだまま、欠伸でもするように剣持を見つめている。
その周囲には、血のように赤い液体がゆっくりと宙を漂っていた。
「……。」
葛葉は退屈そうに笑う。
「初めまして。」
その笑みだけが、不気味なほど楽しそうだった。
「遊ぼうぜ。」




