彼女たちは歩み寄れず
翌日の放課後。
既に学校を後にした永遠は、久遠と共に街中を歩いていた。
特に会話もなく、永遠は久遠のあとをついていく。
艶やかな光沢を放つ美しい黒髪が歩を進めるごとにさらりと揺れる様を眺めながら、永遠は昨晩にカレンと交わした会話を思い出す。
願いが叶うカードの存在。故に敵はイマーゴばかりではないということ。つまりソリテュード同士でカードの奪い合いが行われているということ。
今自分が思っていることを久遠に伝えたとして、彼女は何と言うだろうか。少しだけ永遠は不安になる。だが久遠は、一時的だとはいえ自分と協力関係を結んでいる。そしてそれは、きっとカードのことも理解した上での行動だ。だとすれば、たとえ今の彼女が、探しているイマーゴを片付けてしまえば即自分との関係を切るつもりなのだとしても。それでも、少しは心を開いてくれているはず。
だったら分かってくれるかもしれない。一生懸命に話をすれば受け入れてくれるかもしれないと、そう永遠は考えた。
「ねえ、叶世さん」
「なに」
足を止めることなく、久遠は耳を傾ける。少し緊張。
「あ、あのね。実は昨日、叶世さん以外のソリテュードに会ったの」
「そう」
そして黙る久遠。
あまり聞きたくはないのだろうか。
ちょっとだけ迷う永遠だったが、話を続ける。
「それでね。その人はとっても優しい人で、私のことも助けてくれて、仲良くしたいって言ってくれたの。だから」
「だから仲間に加えたい、とでも言うつもりなのかしら」
久遠の語調は少しきつくなっていた。
永遠は少しでも空気を和らげるべく笑顔をつくる。
「う、うん」
久遠は微かに溜息を漏らした。
足を止めて、久遠は無表情な顔を永遠へと向ける。
「忘れているのかもしれないけれど、私とあなたの協力関係は一時的なものでしかないのよ」
チクリとした痛みが永遠の胸を刺した。
「分かってるよ。ちゃんと分かってる」
「本来なら一時的にですらソリテュード同士が手を組むなんてあり得ないの。それでも私があなたとこうしているのは、あなたが本物の馬鹿で害意がなくて、そしてなによりソリテュードとして生まれ変わって間もないから。だから私はあなたに利用価値を見出し、そして利用しているに過ぎない」
きっと久遠の言葉は、永遠がまだソリテュードについて何も知らないから、だから手を組めているのだと言っているのだ。
「あなたのことだって完全に信用したわけではないのに、あなた以外のソリテュードとなんて手を組めたものではないわ。それにきっと、あなたはそいつに騙されているに決まっている。あなたみたいに温いソリテュードなんてそうそういるはずがないもの。勿論私に対してもそうだけれど、無暗にソリテュードを信用するのは止めなさい」
華蓮から話を聞いた今の永遠は、久遠の言うことを理解できる。確かに無暗矢鱈と相手を信じては痛い目を見ることもあるだろう。
それは分かる。でも。
「でもカレンさんは違うよ! きっとカレンさんとなら仲良くなれる。だってカレンさんは、私のことを仲間だって言ってくれたもん!」
永遠の訴えに「……華蓮?」と、久遠の瞳が鋭くなる。
そして、やがて何かを言おうとして。
しかし久遠は永遠から視線を離した。
「……イマーゴの気配」
永遠も感じていた。
背筋を走っていく、冷えた指先でなぞられたようなこの怖気は。
……いる。おそらく、そう遠くはない。
「行くわよ」
久遠が言う。
大切な話の途中だ。とはいえ化け物を放置するわけにはいかない。そのせいで犠牲者が出てしまっては悔やみきれないだろうから。
「うん」
一旦話については頭の片隅に追いやって、永遠と久遠は走り出した。
路地裏へ入り込み、暗がりへ、さらに暗がりへと二人は走る。
いつの間にか場所は生まれてずっと宇水で暮らしている永遠ですらも知らないような光景に変わっていく。多量のゴミが散乱していて、周囲のコンクリート壁には意味不明な落書きがまるで魔法陣のように書き殴られていた。きっといつもは不良の溜まり場にでもなっているのだろう。
「近い」
久遠の言葉通り、気配はもう目と鼻の先にある。
その感覚を裏づけるかのように嫌な臭気が永遠の鼻をついた。錆びた鉄のような、そして生魚の肝を撒き散らしたような強烈な臭い。多分、いや、間違いなく血と内臓の臭い。この悪臭の元凶は化け物か、それとも――。
最悪の場合を想定しつつ、永遠と久遠は角を曲がった。
「…………!」
「…………」
そこにあったのは……幸いにも人間の死体ではなかった。
代わりに転がっていたのは、頭部を失い、おまけに心臓を貫かれ絶命しているイマーゴの死体。その首は、心臓とは違って、刃物以外の何かに強引に引き千切られたと思える歪な断面をしていた。
それはきっと鎖だった。だって化け物の傍ら、血に塗れた鎖が地面を這っていたから。
深紅に濡れる蛇を辿った先にあったのは、汗一つかかずに佇む愛愛門華蓮の姿だった。
「――カレンさんっ」
表情を緩める永遠。
声を受けて華蓮も永遠の存在に気づく。
「あら、木崎さん」
そして、にこりと笑みを湛えた。
「せっかく駆けつけてくれたみたいだけどごめんなさい。ちょうど今片付けちゃったところなんです」
「い、いえっ。そんなことないです。カレンさんが無事でよかったです」
「あら、そちらの方はお友達ですか?」
華蓮の視線が久遠へいく。
久遠は、何も言わなかった。
慌てて永遠が口を開く。
「えと、叶世久遠さんって言って。今、一緒にイマーゴと戦っているんです」
自分勝手に断言するのがはばかられて、友達です、とは言えない永遠だった。
再び華蓮の目が久遠を見た。
「そうなんですか。他にも一緒に戦ってくれる仲間がいたんですね」
そう言って鎖を仕舞いながら、華蓮は永遠達の元へ歩み寄る。
「それなら是非、私とも仲良くしてくれないでしょうか。私の名前は愛愛門――」
――――――――ッ!!
華蓮の言葉を遮って。
鼓膜に突き刺さるような銃声が狭い路地に鳴り響いた。
いつの間にか変身した久遠の手に握られた銃の口からは確かに硝煙が上がっていた。
華蓮の足元にできた小さな銃痕が砕けたアスファルトを塵へと変えて巻き上げる。
「か、叶世さん……っ!?」
永遠は絶句していた。
自分を拒否したときだってこんなことはなかった。言葉使って拒まれた。無視をされて拒まれた。それだけだった。だというのに、久遠は華蓮に向かって銃を撃ち放ったのだ。
化け物を殺すほどの殺傷能力を持つ銃弾を。
「あら」
永遠とは違って、当の華蓮はさほど驚いた様子を見せなかった。
澄ました表情で久遠を見据える華蓮。
久遠の方もまるで表情に変化を見せていなかった。今撃ったのはBB弾だとでもいわんばかりの、そんな顔。
「それ以上近づかないで」
抑揚なくして放たれたその言葉には、確かな敵意が籠められていた。
華蓮は薄く笑う。
「どうやら私、嫌われちゃっているみたいですね」
そう言って子猫に嫌われたことを残念がるような顔をして、華蓮は踵を返した。
「か、カレンさん!」
永遠は華蓮を呼び止めようとして、さらにはいまだ驚きの色を消せない瞳で、華蓮に銃口を向け続ける久遠を見やる。
「叶世さん……っ! どうしてっ」
「いいんです、木崎さん」
「で、でも……っ」
「気にする必要はないですよ。本来ソリテュード同士が出逢った場合は、こうなるのが当たり前なんですから」
華蓮本人がそう言うものだから、永遠は口を噤むほかなかった。
これっぽっちも怒った様子を見せずに、華蓮は久遠に笑いかける。
「ごめんなさい。けれど別に、あなたのお友達を取っちゃおうだとか、そんなつもりじゃなかったんですよ?」
久遠の返答は、ない。ただ敵意を向け続け、銃口を向け続け、久遠は華蓮に対して立ち去れと無言の圧力をかける。
華蓮自身、その訴えに抗うつもりはないようだった。
「それじゃまた、木崎さん。今度は二人きりで会いましょう」
最後にもう一度永遠に微笑みかけ、華蓮はその場を後にした。
角を曲がり、華蓮の背中が見えなくなったところで、やっと久遠は銃を下ろした。そして無言のまま武器の形状を銃から斧へと変えてイマーゴの死体にかざし、霧化したその血肉を回収した後に残ったアニマカルタを久遠は手に取る。
淡々と。実に淡々と。数秒前には人に銃を向けていたことなど忘れたかのように。
永遠は拳を握り、震わせた。
「……どうして」
その怒りは、声をも震わせていた。
我慢できなかった。こらえきれない感情が、永遠の目尻に薄く涙を滲ませる。
「どうしてあんな酷いことをしたの!? カレンさんは敵じゃない。仲間なんだよ!」
「それはそうあなたが思っているだけ」
「違うよ! カレンさんは言ってくれたもん! 仲間だって! これから一緒にイマーゴと戦っていこうって!」
「口から出任せを言う奴なんて腐るほどいるわ。あなたは何も知らないから簡単に騙されるのよ」
「知ってる……知ってるよ!」
永遠は声を荒げる。
初めてだった。永遠がここまで久遠に対して怒りを顕わにしたのは。
「ソリテュード同士がなんで手を組まないのか。ソリテュード達は願いを叶えるためにそのカード、アニマカルタを集めてるってこと。そして他人が持ってるアニマカルタを奪うためにソリテュード同士で戦いが起こることも」
久遠のカードを握る手が僅かに動いた。しかし永遠にとってそれはどうでもいい。
「それを教えてくれた上でカレンさんは私に言ったの。自分のために他人を不幸にしたくないって。人間同士で戦いたくないって。それなのに、どうして叶世さんはカレンさんを受け入れてあげないの? どうしてカレンさんを独りぼっちにしようとするの? 私とはこうして一緒に戦ってくれるのに、どうしてカレンさんにはあんなに酷いことをしたの……っ!」
永遠の目尻に溜まった涙は今にも零れ落ちそうになっていた。
久遠は、沈黙。けれどその瞳に悔いた様子はなく、はっきりと冷静だった。
それが永遠には許せなかった。
感情を映さぬ眼差しを永遠に向けながら、久遠は口を開く。
「木崎永遠、やっぱりあなたは」
「私、カレンさんを追うよ」
永遠は久遠の言葉を遮った。どうせ彼女の口から謝罪はない。彼女は彼女の考えを曲げはしないだろうと、永遠は思ったのだ。
「……っ。待ちなさい」
久遠が制止をかける。
しかし永遠は、従おうとは思わなかった。聞く気になんて、なれなかった。
「ごめん」
それでも心根の優しい永遠だ。別れ際に一言謝罪の言葉を残して、永遠は久遠の横を過ぎた。
華蓮が姿を消した方へ、永遠も同じように去っていく。
やがて足音の消えた路地裏には、暗がりの中に独りで佇む叶世久遠の姿があるばかりであった。
ぎゅっとアニマカルタを握る久遠は。
「……やっぱりあなたは、何も知らないわ」
何か抑えきれないものを漏らすように、一言を冷めた空気へと溶かしたのだった。
「――カレンさんっ!」
制服姿で人通りのない街路を歩いていた華蓮は、永遠へ振り向き、少し驚いたような顔を見せた。
「木崎さん、どうして」
そんなことを呟く華蓮の前で立ち止まり、永遠は膝に手をつく。
数度の呼吸で息を整え、永遠は顔を上げた。
「えっと。その、私、カレンさんのことが心配になって、つい」
「気にしなくていいって言ったのに。私よりもお友達……叶世さん、だったかしら。彼女を置いてきちゃって大丈夫なんですか?」
心配そうに顔を覗く華蓮を見て、なおさら永遠は心痛く感じ、そして久遠への怒りを感じた。
唐突に銃を向けられたというのに、その本人を心配する華蓮は本当に優しい。
この優しさが嘘であるはずがない。自分を騙しているはずがない。何故それを久遠は分かってくれないのだ。
「いいんです」
意図せずして永遠の語調は少し強かった。
「それに私、カレンさんに言わなきゃって思ったから」
「私に?」と首を傾げる華蓮。
「はいっ」
頷き、そして永遠は微笑む。
永遠が伝えたかった言葉、それは。
「叶世さんは分かってくれなくたって、私はカレンさんのこと分かります。とっても優しくて頼りがいのある人だって、私知ってますから」
「私を……?」
半ば放心した表情で、華蓮は永遠を見つめる。
「私を、理解して(わかって)くれる……」
そう呟いて、嬉しそうに。実に嬉しそうに。華蓮は頬を緩ませた。
「木崎さん」
そして。何か意を決した様子で彼女は語り始める。
「かつて私には、一緒にイマーゴと戦う仲間――ううん、親友がいたんです」
「親友、ですか」
「ええ。その子――ミユキは優しい子でした。生前はあまり友達なんていない子だったのだけど、それでもソリテュードとして生まれ変わってからずっと、見ず知らずの人達を助けるため、自分のことなんて顧みずに独りぼっちでイマーゴと戦い続けてた。それどころか、時には過去に自分を襲ったソリテュードのことだって助けていました。本当に強くて優しい心を持った子だったんです、ミユキは」
虚ろとしていて、でも穏やかな華蓮の瞳は、きっとそのミユキの姿を見ていた。
「そんなミユキと私は出逢いました。とても嬉しかった。恐ろしい化け物と戦うことを強いられ、けれど同じソリテュードにも命を狙われる、つらくて孤独な日々の中で見つけた唯一の陽だまりみたいな存在でした。だから私は彼女と一緒にイマーゴと戦った。アニマカルタなんて必要なかった。願いなんてどうでもよかった。ミユキと一緒にいられるだけで私は幸せだった」
語るだけで華蓮にこれほど穏やかな表情をさせるミユキとは、おそらく華蓮にとってかけがえのない存在なのだろうと、永遠は思った。
しかし、それだけに気になったのだ。
「でも、そんな大切な友達のミユキさんとどうして今は一緒にいないんですか」
なんと愚かしい疑問。少し考えれば分かるはずだった。
永遠が自身の失言に気づくより早く、華蓮は言う。
「……死んでしまったんです」
言葉を失う永遠。
なんてことだ。なんてことを訊いてしまったのだ。永遠は自身の発言を悔いた。
「いいんですよ。最初から話すつもりでしたから」
華蓮は永遠を責めることなく、微笑む。そして、そのまま話を続けた。
「つい最近なんです、ミユキが死んでしまったのは。ミユキを失ってからすぐは私も塞ぎ込んでしまって、ろくにイマーゴの駆逐はしなかったし、他人を助けることもしませんでした。おかげで他のソリテュードからは、『あいつはミユキがいなくなって変わった。自分達と同じになったんだ』って言われていたらしくて。叶世さんが私を近づけまいとしたのは、きっとそれが理由だったんじゃないでしょうか」
永遠は、何と言えば良いのか皆目分からなかった。
ただ永遠に想像できたのは、華蓮が親友を失った悲しみに打ちひしがれ、独りぼっちになり、さらには先のように久遠に拒絶されて酷くつらい気持ちを味わっただろうことだけだ。そんな彼女にかける言葉など、思いつくことのどれもが安易な慰めや軽薄な同情に感じられて、永遠の口を出ていくことはできなかったのだ。
まるで自身のことのように悲痛な表情を浮かべる永遠に、「でも」と華蓮は続けた。
顔を上げる永遠。その瞳に映った華蓮は、
「木崎さんは私のことを分かってくれるって言ってくれて。また独りぼっちになりかけていた私に手を差し伸べてくれて――」
笑っていた。
「――それがとっても、嬉しいんです」
華蓮の笑顔はとても美しくて、そして儚くて。言葉にならない感情が込み上げてきて。思わず永遠は華蓮の手を握った。
「カレンさん」
そして一生懸命に華蓮を見つめて、一生懸命に永遠は伝えた。
「私はカレンさんを独りぼっちになんかしません。つらいことや悲しいこと、そして嬉しいことや楽しいことも全部、これからずっと一緒に乗り越え、受け入れていきましょう。きっとミユキさんの代わりにはなれないけど、同じ仲間として私は精一杯カレンさんの理解者でありたいです」
そう言って微笑み、永遠は華蓮の手をぎゅっと握る。
やがて華蓮は、永遠の手を握り返した。
「ありがとうございます、木崎さん」
その表情は、本当に嬉しそうに笑顔を湛えていた。
「あなたならきっと私のことを全部理解してくれるわ」
それから長らく時間が過ぎ、今では夜もすっかり更けた頃。
寝間着姿の永遠は、自室のベッドに一人寝転んでいた。
お気に入りのぬいぐるみを抱きながら、永遠は天井に手をかざす。
まだ感じられる、華蓮の手の温もり。永遠にとって、華蓮と心を交わしたのだという何よりの証だ。そう思い、永遠は、ふっと頬を緩めた。
ところが、それも少しのこと。
「…………」
永遠の表情はすぐに翳りを落とし、すっかり曇ってしまう。言うまでもなく、久遠のことが永遠の頭を駆け巡っていた。
久遠が何故にあそこまで華蓮に対して冷淡な態度をとったのか。いまだ永遠は納得できる答えを見つけることができなかった。仮にどうしても華蓮のことが信用できなかったとして、それで唐突に銃を放つことなどあるのだろうか。自身に対してはそんなことをしなかったのに、華蓮に限ってはそんな対応をすることが本当にあるのだろうか。
実は他に何か理由でもあったのだろうかと、永遠は思う。
だがしかし。どうあったところで久遠に対する永遠の怒りは収まる場所を知らなかった。
ああいうことは、永遠は久遠にはして欲しくなかったのだ。
かざしていた腕を瞼の上に落とす永遠。そして小さく息をつき。
「叶世さん、どうして……」
何を言いたいのか自分でも分からず、ただ胸の中の気持ち悪い感情を少しでも楽にしたいと、永遠は口が動くのに任せて言葉を吐き出す。
それでも胸のもやもやは消えてはくれなかった。
どうしようもなく、永遠は一旦抗うことを止めた。
そのまま静かに瞳を閉じて。
消えないまま。消せないまま。
熱帯夜のような息苦しさを抱きながら、永遠は眠りについた。




