ーー美羽の秘密中巻
花杉学園ーー四月の教室。 新入生たちは互いの距離を測りかねて、ぎこちない笑顔を交わしていた。 その中で彼女ーー櫻井美羽は明らかに浮いていた。
肩まで伸びた金色の髪。 綺麗な肌、大きな瞳。 何より、口元に絶やさない、屈託のない笑顔。
「櫻井美羽です! よろしくお願いします!」
自己紹介の声は明るく、少しだけイントネーションが揺れていた。 中学までを海外で過ごしたのだと、美羽は照れたように付け加えた。
「『パパ』の仕事の関係で、こっちに引っ越してきましたのよ。 日本のこと、まだ分からないことばっかりだから、いっぱい教えてくださいませ!」
教室の後ろの方で、三つの椅子が小さく音を立てた。 窓際の席で頬杖をついていた女子が、隣に座る友人に何かを耳打ちした。 耳打ちされた方が、口元を手で隠して笑った。 その向かいで、爪をいじっていた三人目が顔を上げ、つまらなそうに美羽を見た。
「ねえ。あの子さあ」
声は小さかった。けれど、三人にだけは、はっきりと聞こえた。
「『パパ』だってさ」
「うわ、高校生にもなって」
「金髪のくせに、ぶりっ子? ウケる」
「なんかムカつくよね」
「イジメてやろうか?」
「いいね」
「賛成!」
彼女たちがそうする理由は、暇。 ただそれだけだった。
次の日の朝、美羽は自分の上履きが下駄箱にないことに気づいた。 一時間目が始まる直前、トイレの個室の隅で見つけた。中に水が入っていて、つま先を入れた瞬間に、ぐじゅ、と冷たい音がした。
二日目。 机の中に入れていたはずの教科書がなくなっていた。 放課後、ゴミ箱の底から見つかった。 表紙には黒のマジックで「死ね」と書かれていた。 美羽はそれを、強くこすって落とそうとした。 指先が黒く汚れた。 汚れは、なかなか落ちなかった。
その日の昼休み、トイレで手を洗っていると、隣の個室から、声が聞こえた。
「ねー、聞いた? あの金髪、『パパ』『ママ』だってよ」
「ヤバ。何歳?」
「精神年齢、幼稚園?」
「ぶりっ子も大概にしてほしいよねー」
美羽は、蛇口を、強く締めた。 水が、止まった。 けれど、彼女たちの笑い声は、止まらなかった。
三日目。 休み時間に話しかけようとしたクラスメイトが、目を合わせずに席を離れた。 昨日は、美羽の英語の発音を褒めてくれた子だった。
その子の肩を、窓際の席の女子がぽん、と叩いて通り過ぎたのを、美羽は見た。
見たけれど、美羽には意味がわからなかった。 ただ、悲しかった。
四日目の昼休み。 美羽は屋上に続く階段の踊り場で、三人組に囲まれた。
「ねえ櫻井さん」
リーダー格の女子が、にこ、と笑った。
「『パパ』、元気?」
「『ママ』はー? 地球の裏側? 寂しくなーい?」
「金髪パパっ子ちゃん、可哀想ー」
「ねえ、なんで日本来たの?」
「えっと、パパの仕事の都合で⋯⋯」
「ふーん。帰れば?」
「え⋯⋯」
「海外に帰れば、って言ってんの。 あんた、こっちじゃ浮いてるよ?」
「金髪、染めてんでしょ? 校則違反じゃん。先生に言おっか」
「染めて、ませんわ! 生まれつきですの!」
美羽は、まっすぐに答えた。 声は震えなかった。
「は? 嘘でしょ」
「嘘じゃないですわよ!」
「きっも。 嘘までついて目立ちたいの?」
リーダー格の女子が、笑顔のまま、櫻井の髪を一房、指で掬った。
「これ、ほんとに自分の毛? ちょっと引っ張ってみていい?」
「え? イタ⋯⋯」
返事を待たずに、彼女は美羽の髪を強く引いた。 頭皮が引きつった。
「ほんとだ、抜けないね~ じゃあ次は、どこまで引っ張ったら抜けるか試してみよっか?」
「いいね! やろ~」
「賛成!」
三人が、声を上げて笑った。 美羽は逃げた。 階段を駆け下りて、トイレに駆け込んで、個室に閉じこもった。 手のひらに、抜けた金色の髪が、数本絡みついていた。
五日目の朝、美羽の机に、花瓶の水が一面にぶちまけられていた。 教科書もノートも、筆箱の中身まで、全てが濡れていた。 教室には数人のクラスメイトがいたが、誰も顔を上げなかった。
「あーあ、誰がやったんだろうね」
「『パパ』に泣きついたら? パパっ子ちゃん」
「ママに国際電話してみたら?」
くすくす、と笑い声。 あの三人組だーー 美羽は、振り向いた。
「やめてくださいませ! 大人気ないですわよ!」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。 教室の空気が、一瞬、凍った。
「私が何をしたんですの? 理由を教えてくださいませ!」
リーダー格の女子は、目を丸くして櫻井を見た。それから、ゆっくりと笑った。
「理由? ないよ、そんなの」
そういうと三人が笑った。
ーー理由がない。 その四文字が、美羽の中で、何かを軋ませた。
美羽は、それでも、その日の放課後、職員室に向かった。 担任の教師は、櫻井の話を最後まで聞いた。 それから、困ったように笑って、言った。
「うーん、でもさ、櫻井さんも、ちょっと目立つから。 もう少し、周りに馴染む努力をしてみたら? ね? 角が立たないように⋯⋯」
「努力って、何を、ですか?」
「だから、その、髪とかも、地毛申請はしてあるけど、もう少し、こう、自然な色に⋯⋯」
「髪を、染めろってことですか!」
「いやいや、そうは言ってないけど、その、雰囲気をね?」
「ありえませんわ! ⋯⋯失礼しますわ!」
美羽は、職員室を出た。 土日を不安なまま過ごしーー
ーー六日目。 下駄箱を開けた瞬間、何かがどさり、と落ちた。 死んだネズミだった。 腹を割かれていた。 そのタイミングで飛び出してきた三人組。
「『パパ』に見せてあげなよ~」
「あっちじゃ、ネズミも友達でしょー?」
「うわ! じかでもってやんの! 引くわ!」
「⋯⋯」
美羽は、ネズミをそっと拾い上げて、保健室の先生に届けた。 先生は、困ったように笑った。
「校外から猫が運んできたのかもしれないね」
その日、美羽の体操服がなくなった。 放課後、校舎の裏の用水路で見つかった。泥水に浸かっていた。 胸元のあたりに、カッターで切られた跡があった。
七日目。 美羽のスマホに、知らない番号からのメッセージが、何十件も溜まっていた。
「死ね」
「きもい」
「日本から出てけ」
「パパっ子ちゃん」
「お前のパパも死ね」
「ママも一緒に、地球の裏で死ね」
美羽は、それらを全て削除した。 精神的苦痛が美羽を襲った。
その日、家に帰ると、美羽はパパに言う。
「⋯⋯美羽。 どうした? 最近元気がないな?」
「⋯⋯パパ。 お願いがありますの。 ことね様に、会わせてくださいませ!」
和馬の手が、止まった。
「ことね様に、会いたいんです。一目でいい。一言でいい。お願いします、パパ。お願いします」
「美羽。それは、駄目だ」
「どうしてですの?」
「お前が、まだ、ことね様の前に出るに、相応しい人間じゃないからだ」
パパの声は、優しかった。けれど、揺るぎなかった。
「美羽がことね様にお会いできるのは、お前が、ことね様の隣に立つに値する人間に、なってからだ。 それまでは、会わない。それが、櫻井家の決まりだ」
「パパ!」
「美羽!」
「お願いします。 一目でいいのですわ!」
「美羽、何があった。今日のお前は、おかしいぞ。何かあったのか?」
美羽の、心臓が、跳ねた。 パパに気づかれる!
「パパは、私のこと、何も分かってないですわ!」
「おい? 美羽! どこに行くんだ!」
美羽は、走った。 外に、飛び出した。 四月の夜は、まだ寒かった。 パパが、「美羽!」と叫ぶ声が、背中に刺さった。 美羽は、振り向かなかった。
美羽は、夜通し走り続けた。 ずっと涙が、流れていた。 何度、奥歯を噛んでも、止まらなかった。 数日間堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出していた。 夜の街を、美羽は走った。 金色の髪が、夜風に揺れた。 街灯と、街灯の間の暗い道を。 コンビニの明かりが漏れる、駐車場の脇を。 誰もいない、深夜の公園の、横を。
走って、走って、走って。 ーー気がつくと朝になっていた。
◇◇◇
「⋯⋯美羽。 お前、何があった?」
「……喧嘩しただけですわ! パパと」
「それだけか?」
「⋯⋯」
美羽は、答えなかった。 湊は、美羽の顔を、まっすぐに、見ていた。
ーーばれてる。 美羽は、思った。 湊には、ばれてしまったとーー
「美羽。 俺は調べるぞ!」
「⋯⋯何を」
「お前の高校、お前のクラス、そしてお前に何があったか」
「やめて!」
「黙ってろ! 和馬さんには話したのか?」
湊の声は、低かった。 美羽は、首を、振った。
「これから、話す気は?」
「⋯⋯ない」
「なんでだ」
「パパに、これ以上、迷惑かけたくないですわ」
湊は、しばらく、沈黙した。 それから、頷いた。
「分かった。じゃあ、和馬さんには、知らせない。 俺が、別の方法で動く」
「湊⋯⋯」
数日後。 湊は、美羽の前に、座った。
「お前の高校での話、全部知った」
美羽の、顔が、青ざめた。
「湊⋯⋯」
「で、本題だ。 お前、俺の高校に来い!」
「え?」
「理想学園。俺と、ことねが、通ってる高校。 そこに、お前を、転入させる。 手続きは、俺の方で、和馬さんに、家訓を盾に、押し付けた。 和馬さんには、何も、知らせてない」
「待って、湊⋯⋯」
「家訓、覚えてるか?」
湊の声が、変わった。
「『川端家の本家筋からの命令には、櫻井家は、絶対に従う』。これ、効くんだろ?」
美羽は、頷いた。
「効きます」
「じゃあ、命令な」
湊は、美羽の目をまっすぐに見た。
「美羽。 お前、ことねの傍に、来い。 これは、川端ことねからの、命令だ!」
美羽の目から、涙が、溢れた。 涙が、止まらなかった。
ーーその夜、櫻井美羽の、転校が、決まった。
しかし、転校の前日。 美羽は、学校に私物を取りに行く必要があった。
机の中に、まだ、残っているはずの、いくつかの私物。教科書。 ノート。 海外から持ってきた、お気に入りのペンケース。 それらを、回収する必要があった。
翌日、美羽は朝早く、ことねの家を出た。 ことねは、いなかった。 湊にも、何も、言わずに一人で。 スマホの電源も、切ったままにした。
着いた。 たった数日しか、通ってなかった学校。 けれど二度と戻ってこない場所ーー 校門の、前に、立った。
担任には、和馬を通じて、「私物を取りに行く」とだけ、連絡してあった。 担任は、ほっとしたような声で、了承したらしい。
美羽は、深く息を吸った。 校門をくぐった。 下駄箱ーー
そこを通るとき、美羽は、目を伏せた。 ネズミの感触が、まだ、指に残っていた。
長い廊下を歩いた。 靴音が、自分のものだけだった。 教室の、ドアの前に、立った。 ドアに、手をかけた。 引いた。 がらりと軽い音がした。 教室は空っぽだった。
夕陽が、窓から差し込んでいた。誰もいない教室は、思っていたより、ずっと、小さく見えた。
美羽は、ほんの一瞬、息を、吐いた。 ーー終わらせよう。 自分の席に、向かった。
机の中に、手を入れた。 教科書が、何冊か、残っていた。ノートも。 ペンケースも。 海外から持ってきた、お気に入りの。 美羽は、それらを一つずつ、紙袋に入れていった。 最後に、ペンケースを、手に取った。
そこには、ママから貰った、銀色のシャープペンが、入っているはずだった。 海外で、美羽の十三歳の誕生日に、ママが買ってくれた。 この地に帰ってきても、ずっと使い続けていた、大切なものだった。 ペンケースを、開けた。 シャープペンが、なかった。 代わりに、何枚かの、紙が入っていた。 美羽は、その紙を、引き出した。
ーーシャープペンの、写真だった。
折られて、踏まれて、ぐしゃぐしゃになった、銀色のシャープペンの写真。 机の上に置かれて、上から誰かの上履きで、踏みつけられている瞬間の写真。 割られたシャープペン。 芯が何本も折れて、散らばっている写真。 ゴミ箱に捨てられた、シャープペン。 最後の一枚。 便器の中の、シャープペン。 櫻井の指が、震えた。 息が、止まった。 そのときーー
教室のドアが、がらり、と開いた。
「あれー?」
声が、聞こえた。 美羽の、心臓が、止まった。
「やっぱり来てたー」
「ねえ、見て一人だよ〜」
「えー、最後の日に、一人とか、可哀想ー」
三人組だった。 リーダー格の女子と、爪をいじる女子と、笑い声を最初に上げた女子。 三人とも、にやにやと笑っていた。 手には、スマホ。 当然のように、構えていた。
「先生から聞いたんだー、今日来るって」
「お別れ、しようと思って、待ってたんだよー」
「写真、見てくれた? 大事に保管してたんだよ」
くすくす、と笑い声。 美羽は、立ち尽くした。 ここには、私しか、いない。
「ねえ、なんか言ってよー」
「無視? うわー、性格悪ー」
「ぶりっ子だもんねー、こいつ」
リーダー格の女子が、近づいてきた。
櫻井は、後ずさった。 机に、背中が、当たった。
「ねえ、櫻井?」
「⋯⋯」
リーダー格の女子は、顔を、近づけてきた。
「次の学校、どこ行くの?」
「⋯⋯」
「教えてよー、また会いに行くからさー」
「やめ⋯⋯」
「『やめてください』? また言うの~」
三人が、笑った。
「あんたさあ」
リーダー格の女子の声が、急に、低くなった。
「次の学校でも、絶対いじめられるよ?」
「え?」
「だってさ、あんた、いじめられる『種類』だもん!」
リーダー格の女子は、櫻井の顎に、指を、当てた。
「金髪で、ぶりっ子で、お嬢様口調。 『パパ』『ママ』で、自分のこと、特別だと思ってる。 そういうの、どこ行っても、嫌われるよ? 次の学校でも、その次の学校でも、絶対、同じことが起きる」
「⋯⋯」
「だってさ」
リーダー格の女子は、笑った。
「『あんた』が、原因だもん」
それは、「いじめは、いじめる側が悪い」という、当たり前の常識を、根底から、ひっくり返す言葉だった。「私たちは、悪くない。あんたが、いじめられる存在だから、いじめられる。私たちは、その役目を、たまたま引き受けたに過ぎない」と。
それは、明らかに嘘だった。 けれど、美羽の、数日間はーーその嘘を、嘘だと断言できる強さを、削り取っていた。
「次の学校でも、絶対、同じことが起きる⋯⋯」
その言葉が、櫻井の中で、こだまのように、繰り返した。
ことね様の、隣に。 湊の、隣に。 新しい高校に、行ったとしてーー そこでも、同じことが、起きるのだろうか? 私が、私である限り。 金髪で、ぶりっ子で、「パパ」「ママ」でーー
「ねえ、聞いてる?」
「⋯⋯」
リーダー格の女子の指が、櫻井の髪を、また、掬った。
「次の学校でもさ、こういうことするの、たぶん、別の人がやるよ? あんた、知ってる? いじめられる人って、どこ行っても、いじめられるんだよ? それ、統計でもさ、そういうデータあるんだって!」
「⋯⋯」
「だから、私たちが、特別じゃないの。『あんた』が、特別なの。可哀想にね~」
くすくす、と笑い声。
「ねえ、最後だから、教えてあげる」
リーダー格の女子は、櫻井の耳元で、囁いた。
「あんたが、消えたら、私たち、別の子で、暇つぶしする。次の子。次の次の子。ずーっと、続くの。あんた一人が消えたって、何も、変わらない」
「あんたの、数日間の苦しみとか、私たち、もう、忘れかけてる」
「明日には、もう、忘れてる」
「あんたのこと、『あー、いたねー、そんな子』って、それくらいしか、思い出さない」
「あんたが、どれだけ、苦しんだか、なんて」
「私たちには、関係ない」
その瞬間、櫻井美羽の中で、何かが、決定的に、折れた。
音は、しなかった。
ただ、これまで懸命に支えていた、何か巨大な柱のようなものが、すうっ、と、消えた。 倒れたのではなく、最初からなかったかのように、消えた。
美羽は、その場に、座り込んだ。 涙は、出なかった。
ただ、写真を、握っていた手が、開いた。 写真が、床に、落ちた。
「あれー、座っちゃった」
「最後の最後で、崩れたー」
「動画、撮っとこ」
「これでもう、私たちのこと、一生忘れないでねー」
三人が、櫻井に、スマホを向けた。 美羽は、それを、見ていた。 ただ、見ていた。 抵抗する気力も、逃げる気力も、泣く気力も。 何もかもが、もう、なかった。
ーーあの女の言う通りだ。 美羽は、思った。 ーー次の学校でも、同じことが、起きる。 私が、私である限りーー
「あんた、ぼーっとしないでよ~」
「最後の最後、つまんない反応」
「もういいや、行こ」
三人は、最後に、櫻井のことを、見下ろして、笑った。
「じゃあねー、櫻井さーん」
「次の学校でも、頑張ってねー」
「金髪、染めなよー、似合ってないからー」
がらり、と、ドアが、閉まった。 教室には、美羽、一人だった。 美羽は、しばらく、座り込んでいた。 夕陽が、傾いていった。 教室の影が、長く、伸びた。
引っ越しの日、櫻井美羽は自分の部屋を、最後に片付けた。
段ボール箱の一番底に、入学式の制服を、丁寧に畳んで入れた。 新聞紙に何重にも包んだ。 それから、その上にシャープペンの写真も入れた。 封筒に、入れて密封して。
その上に、他の荷物を、積み重ねた。 ガムテープで蓋を閉じた。 油性ペンで書いた。
『開けない』
美羽はその箱を、トラックに運んでもらった。
ことねの家に、運ばれた箱は、地下の物置部屋の、一番奥に置かれた。
美羽はその箱を二度と開けないと、心に決めた。




