黒田家の一家団欒旅行 ーー凛視点
春休み。 私は、旅行の支度をしていた。
「凛! まだ支度が終わらないの?」
「もうすぐ、終わるよお母さん!」
「明里は?」
「……慌てないで!」
「おい。 明里、前もって用意しとけよ」
陽介お兄ちゃんがそう言うと、明里お姉ちゃんは、はぷうっと頬を膨らませた。
「凛。 先に行こうぜ!」
「うん!」
「え? 二人とも、待ってってば!」
「仕方ねぇなぁ」
陽介兄さんが、明里の荷物をひょいと肩に担いだ。 卒業したばかりの兄さんは、この春から大学生になるんだよね。
「お前たち、準備はできたか」
玄関に、お父さんが立っていた。
黒田幕斗ーー私たちの父。 きっちりと襟のあるシャツを着ている。
「はい、お父さん」
お父さんは満足そうに頷いて、車のキーを回した。
◇◇◇
行き先は、山間の温泉宿だった。 毎年、春休みに来る場所。 黒田家の恒例行事だ。
道中、明里姉ちゃんはずっと窓の外を見ていた。 理由は酔うからだった。
「ねえお兄さん、大学ってどんなところ?」
「さあな。 まだ行ってない」
「つまんない答え」
「事実を言っただけだ」
兄さんは目を閉じたまま答える。 寝るつもりのようだ。
でも、私は知っている。 卒業式の日から、兄さんが少しだけ変わったことを。
窓の外を見る回数が増えた。 考えごとをしている時間が増えた。 そして、生徒会の話題になると、必ず黙る。
「陽介」
運転席から、お父さんの声がした。
「大学に行っても、父さんのことを忘れぬようにな……」
「⋯⋯はあ?」
「あらあら…… じゃあ、私のことも忘れてないでね?」
「⋯⋯これからも毎日会うんだから、忘れるもなにもないだろう……」
「「ハハハ……」」
車の中で大爆笑が起きた。
「凛。 お前は来年、生徒会長になる気はあるか?」
「いいえ。 ……でも、役員にはなりたいです!」
「ふむ。 そうか……」
お父さんは、それ以上何も言わなかった。
◇◇◇
宿に着くと、明里お姉ちゃんが真っ先に廊下を走り出した。
「明里! 走らない!」
「凛も早くー! 露天風呂だって!」
まったく、高校三年生なのに。 ーー去年は、そんな雰囲気じゃなかったのに。
ーーその原因は、わかっている。 倉石瑞稀だ。 彼女と関わって、お姉ちゃんは変わってしまった。 かくいう、私も。
夕食は広間だった。 お母さんが日本酒を頼み、お父さんがそれを止め、結局二人で飲んでいる。 毎年の光景だ。
「幕斗さん。 あなた、最近帰りが遅いのよ」
「⋯⋯少し仕事が立て込んでいてな」
「またなにか企んでるんじゃないでしょうね」
「人聞きの悪いぞ」
「「ははは……」」
お母さんは笑って、お父さんの猪口に酒を注ぐ。 お父さんも笑っていた。
この人は、家では本当によく笑う。 でも、影では黒幕って呼ばれている。
ーーだから私は、時々わからなくなる。 どちらが本当の父なんだろう、と。
「……そういえば凛。 倉石瑞稀と最近どうだ?」
「はい、そのあの……」
「どうした? ……顔が真っ赤だぞ?」
箸が止まった。 私は少し考えて、答えを選ぶ。
最初は、ただのむかつく存在だった。 私を見て馬鹿にしてたのに、兄さんのことを知った途端に謙る。 彼女も他の人と同じだってーー
でも、違った。 私が一人の時や、ひとみだけしかいない時。
彼女は冷たい視線で私を見ていた。 最初はそのことに気づかなかったけど。
ーーそれに気づいた時には既に、私は瑞稀に魅入っていた。
そして気づいて悟った。 私は、彼女に何かを感じていたんだ。
でも、そこまでだった。 最近まではーー
ある時、私の頭に突然記憶が押し寄せて来た。 瑞稀に突然抱きしめられたり、私の部屋着姿を揶揄われたり、体育館で抱き合ったりした思い出がーー
その時、思った。 彼女の側にいたい。 彼女の孤独な心を埋めてあげたいって思った。 ーーなんて、それは美羽の役目よね。
じゃあ、なんだろう? うーん? 例えばーー
「私の子供です!」
「ブッ」
「ゴホゴホ」
「ゲホゲホ」
「あらあら? 私も、その子に興味が湧いてきたわ」
お父さんは、ゆっくり深呼吸をしてこう言った。
「⋯⋯そうか。 よくわかった」
その声が、あまりに穏やかだった。
◇◇◇
夜。 廊下の自動販売機の前で、兄さんに会った。
「⋯⋯凛か」
「兄さん。 眠れないんですか」
「いや。 少し、風にあたっていた」
私と兄さんは、外を眺めた。
「なあ、凛」
「はい」
「倉石のそばにいてやれ」
「⋯⋯どうして?」
お兄ちゃんは答えなかった。
「アイツは、危い……」
「⋯⋯」
お兄ちゃんは笑った。 珍しく、少し疲れた笑い方だった。
「そのことは、覚えておいてくれ」
「わかった……」
窓の外では、山桜が咲いていた。 この山は寒いから、里よりも遅れて咲くのだと、お父さんが昔教えてくれた。 綺麗だねーー
◇◇◇
帰りの車で、明里お姉ちゃんは爆睡していた。 私の肩を枕にして、堂々と。
「凛。 重かったら退けなさい」
「⋯⋯いえ。 このままで」
バックミラー越しに、お父さんと目が合った。
「⋯⋯凛」
「はい」
「お前は、優しい子だ」
それは、褒め言葉だったのだと思う。
ーーでも私には、どうしてかそれに違和感があった。
「お前のためだったら、俺は……」




