凛の求めた理想
人形と化した生徒たちが、虚ろな瞳で整然と並んでいる。
体育館には音という音が消えていた。 誰一人として瞬きすらしない、その無機質な群れを前に、凛は一歩前へ踏み出した。
そして、静寂を引き裂くように声を張り上げる。
「私の名前は黒田凛。 理想学園一年です。 私の父親は、黒田幕斗。 皆さんには『黒幕』って呼ばれていますから、ご存じですよね?」
返事をする者はいない。 ただ、彼女の声だけが、反響して消えていく。
「そして、私の兄、黒田陽介。 前々回の生徒会長です。 それから……黒田明里お姉さん。 スリーガールズのアイドルとして、有名人……」
一つ、また一つと名前を挙げるたび、凛の声がわずかに沈んでいく。 誇らしげでありながら、どこか悲しさを感じる声音だ。
「でも……私には何もない。 何にもないただの末っ子……」
凛は一度言葉を切り、自嘲するように小さく笑った。 その笑みが、ひどく寂しげに見えた。
「華々しい家族の中で、私だけが無能。 ……だから私は、何かになりたかった。誰かに認められる、特別な何かに。 そのためにここへ来たんです。 生徒会長になって、家族に並ぶために。 そう思って、来たはずなのに……」
彼女は胸元を押さえて俯いた。 私は心配になった。
「ずっと、何かを忘れている気がしていました。喉の奥に小骨が刺さったみたいに、ずっと。 何を目指していたのか、何が欲しかったのか、それすら曖昧になっていって……」
そこで、凛の視線がゆっくりと持ち上がり、まっすぐに私の方へ向けられた。 その瞳には、もう迷いはなかった。
「でも、ようやくわかったんです。 貴方が、私にとっての理想だったんだ!」
「理想? 凛の理想が……私?」
思いがけない言葉に、私は声を詰まらせる。 私のどこに、彼女の理想になるものがあるというのだろう? 凛は私の戸惑いを見透かしたように、微笑んだ。
「正確には、貴方や舞香みたいな友達、かしらね」
その声は、これまで凛が見せてきたどんな表情よりも柔らかかった。
「私はずっと孤独だったの。 黒田の名前が、いつも私と他人の間に壁を作っていた。 誰も、私自身を見てはくれなかった。 でも、貴方達に出会えて、私は幸せだった。 一緒に笑って、くだらないことで言い合って。 友達って、いいものね。 こんなに温かいものだったなんて、知らなかった……」
凛は一歩、また一歩と、私の方へ近づいてくる。
「それから、私はいつも、外に出る時は自分を偽っていたの。 完璧な黒田の娘を演じて。 本当の私を、誰にも見せないように生きてきた。 でも……」
凛の声が、わずかに震えた。
「今日と昨日。 私は、ありのままの私でいられた気がするわ。 舞香も瑞稀も、そんな私を受け入れてくれた。 ありがとう、瑞稀。 本当に……ありがとう」
言い終えると同時に、凛は私の胸に飛び込んできた。 細い体が、ぶつかるように腕の中へ収まる。 私はそれを、迎え入れた。 彼女の肩が、かすかに震えているのがわかる。
「凛……今は演説中だよ?」
私は、彼女の背に手を添えながら問いかける。
「生徒会長に、なりたくないの? ……望んでいたんでしょう?」
凛は、私の胸に顔を埋めたまま、首を振った。
「そんなの、私には必要なかった。 最初から、欲しかったのはそんなものじゃなかったの! 肩書きでも、名誉でもない。 それよりも欲しいのは友達よ。 貴方達みたいな、心から笑い合える友達。 たったそれだけで、よかったのに……」
その言葉を聞いて、私は腕に力を込めた。 彼女を、しっかりと抱き寄せる。 言葉ではなく、ただこの腕で、彼女の存在を確かに受け止めたかった。
ーーその意味が伝わったのだろうか。 凛が一瞬、驚いたように体をこわばらせ、目を見開いた。 その瞳から、頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……ありがとう」
「私こそ、ありがとう」
最後にもう一度、消え入るような声でそう囁いて。
次の瞬間、凛の体はこの世界から静かに消えていった。 私の腕の中から、彼女の温もりが、ゆっくりと失われていく。
「あ〜あ。 消えたのね、彼女も……」
ことねが、誰にともなく、ぽつりとそう呟いた。その声は、いつものように淡々としていて。 だからこそ、この静まり返った体育館に響いた。




