彩乃からの願い ーー凛視点
私は、立ち尽くしていた。 舞香が指差した先には、誰もいない。 ソファも、ダイニングテーブルも、空っぽだった。
「⋯⋯舞香」
「あれ? りんちゃん、どうしたの?」
「……ここに、お母さんと、お父さんが、いるの?」
「うん! 今ね、お母さんが夕飯作ってくれてるの。 お父さんもお皿並べてくれてて」
舞香は、誰もいない空間に向かって微笑んでいた。 その視線の先を、私は何度も目で追う。 でも、何もないんだけどーー
私の指先が、冷たくなっていく。
一方、舞香は空間に向けて、声をかけていた。
「ね、お母さん。 りんちゃん、びっくりしちゃってるみたい! ……うんうん。そうだよね! お母さん! ……お父さん! りんちゃんに失礼だよ!」
「……舞香……」
くすくす、と笑って、頷いて。 まるで本当に、そこに誰かがいるみたいに。
不気味だわ。 息が、浅くなる。 私は、自分の家に誰もいないことに気づいて、ここまで逃げてきた。 なのに、ここでもいないはずの人がいるの?
ーーいいえ、違う。 これは、私の事情とは違うわ!
「⋯⋯」
「凛ちゃん?」
「……舞香。 落ち着いて聞いて、私には貴方のお母さんとお父さんは見え……」
「ご、ご飯の準備ができたわよ!」
「……彩乃さん」
「……」
背後から、声がした。 振り返ると、彩乃が立っていた。
「ご飯の準備ができたわよ。 舞香、先に行って待ってて!」
「…………。 はーい!」
舞香は、しばらくの沈黙の内。 突然、ぱっと顔を輝かせて、ぱたぱたとキッチンの方へ駆けていった。
「お母さーん、お父さーん、ご飯だってー! 一緒に行こう!」
遠ざかっていく舞香の声。 弾むような足音。
ーー私は、その場に縫いつけられたみたいに、動けなかった。
「⋯⋯黒田さん」
「……?!」
彩乃の声が、すぐ近くで聞こえた。 ふっと我に返って、顔を上げる。
彩乃は、エプロンの裾を握っていた。 ーー私を警戒しているわね。
「ね、ねえ、彩乃さん」
「⋯⋯うん」
「これ、どういうこと? お母さんも、お父さんも、いない、わよね?」
「⋯⋯」
「私の目が、おかしいの? それとも、舞香が⋯⋯」
言いかけて、口をつぐむ。 舞香がおかしい、なんて言いたくなかった。
彩乃は、ゆっくりと目を伏せた。 その横顔は、ひどく疲れて見えた。
「⋯⋯ごめんなさい」
「な、なんで謝るの?」
「説明したいの。 本当は、説明したい。 でも、それを話したら、舞香に聞こえちゃうかもしれないから」
彩乃の声は、震えていた。
「お願い。 舞香に、合わせてあげて」
「⋯⋯合わせる?」
「いるってことに、してあげて! お母さんも、お父さんも、そこにいるって。 舞香の前では、そうしてあげて!」
ーーそれは、つまり。
舞香には、見えているけれど、本当はいないということ? 私の家のように、本当はいない?
ううん、違う。 頭の中が、ぐちゃぐちゃで、まとまらない。
「⋯⋯彩乃さん。 舞香、大丈夫なの?」
「⋯⋯」
彩乃は、答えなかった。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 舞香。 あの太陽みたいに笑う舞香がーー
玄関で彩乃が言った言葉が、今になって、輪郭を持って蘇る。
「⋯⋯嫌いになんて、ならないよ」
「……黒田さん」
気づいたら、そう口にしていた。 彩乃の瞳が、わずかに揺れた。
「⋯⋯凛ちゃん」
「だから、今日は合わせる。 舞香の言う通りにする」
彩乃は、何度も瞬きをして、それから、エプロンの裾で、目元をそっと押さえた。
「ありがとう。 本当に、ありがとう」
「⋯⋯ううん」
「ねえ、お姉ちゃん! りんちゃん! 冷めちゃうよー!」
奥から、舞香の声が響いた。 いつもの、明るい声。 なんにも知らない、無邪気な声。
彩乃は、私に向かって、ぎこちなく笑った。 苦笑い、と呼ぶにはあまりに痛そうな笑顔だった。
「⋯⋯今行くわよ」
「⋯⋯うん。 今行く」
私も、声を絞り出す。 精一杯、いつもの自分の声で。
彩乃が、先に歩き出した。 その背中が、ほんの少し、震えているように見えた。
ーー私は、その背中を追いかける。
舞香の元へ。 誰もいないはずの、桐原家のダイニングへ。




