貴方の元へ ーー凛視点
住宅街を目的地に向かって歩いた。 私の行き先は、決まっていた。
道中の商店街には、人通りがまったくなかった。
ーー舞香。 彼女の顔が、真っ先に浮かんだ。 あの人懐っこい笑顔。「りんちゃん」と呼ぶ、甘ったるい声。 今、無性に会いたい。
息を切らせて辿り着いたのは、桐原家。 私は、震える指で、チャイムを押した。
ーーピンポーン。
しばらくの沈黙の後、インターホンから声がした。
「⋯⋯はい」
「黒田凛です」
「黒田凛って言うのね……」
出てきたのは、桐原彩乃。 舞香の姉だった。 けれど、彼女の声音には、警戒心を感じる。
「……何の御用かしら?」
「⋯⋯舞香に、会いに来たの」
「……えっと。 舞香は、忙しいの。 明日、学校で会えばいいわよ?」
私の心臓が、きゅっと縮こまる。 ーーやっぱり、無理かな。
でも、引き下がれない。 今日だけは、引き下がりたくない。
「⋯⋯少しだけでいいの。 お願いします」
「⋯⋯それは。 駄目よ……」
彩乃が、深いため息をついた。
「そうだ。 ……舞香はね。 調子が悪いの。 さっき、瑞稀も来たけど、断ったのよ!」
「瑞稀も来てたのね……」
調子が悪い。 その言葉が、胸に刺さった。
「⋯⋯私には、舞香しか、いないの」
「……どうしたのよ?」
「家に、誰もいなくて。 私、一人で⋯⋯」
「⋯⋯あなた、何を言って」
彩乃が、眉をひそめた。 明らかに、不審そうだ。
駄目だ。こんなこと言っても、伝わらないわ。 その時だった。
「お姉ちゃん? どうしたの!」
「……!」
僅かに聞き慣れた声がした。
ぱたぱたと、軽やかな足音。 彩乃の背後から、舞香の声がする。
「⋯⋯あれ? りんちゃん! こんにちは!」
「⋯⋯ま、舞香」
「お姉ちゃん。 なんでりんちゃんが来てるのに、教えてくれないの?」
「⋯⋯舞香。 この子は、あなたに会いに来たそうだけれど、お断りしようと⋯⋯」
「りんちゃん、上がって上がって!」
ーーああ、舞香だ。 舞香の声がする。 目の奥が、じわりと熱くなった。
「⋯⋯舞香」
「りんちゃん? どうしたの、目が潤んでるよ?」
「⋯⋯なんでも、ない」
「ふふっ。 早くおいでよ!」
あの太陽みたいな笑顔。 私の凍えた心を、すぐに溶かしてしまう、魔法みたいな笑顔。 体育大会の時のことを思い出す。
「りんちゃんは、私の大切なお友達なの。 歓迎しないと……」
「舞香。 ⋯⋯はぁ。 仕方ないわね」
彩乃が、もう一度ため息をついた。
「⋯⋯ごめんなさいね、黒田さん。 妹が、お世話になっているのに」
「⋯⋯いえ」
「おかしなことがあっても、舞香を嫌いにならないでね?」
「……?」
私は玄関のドアを開けて、中に入る。 玄関には舞香が待っていた。
だけど私を見るなり、舞香は首を傾げた。
「ねえ、りんちゃん。 どうしたの? なんだか、いつものりんちゃんと違うね。 服とか……」
「⋯⋯舞香」
「うん」
「私の家に、誰もいないの……」
「⋯⋯え?」
舞香の表情が、ぴたりと止まった。
「お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも⋯⋯みんな、いなくて」
「⋯⋯」
「でも、顔は、思い出せるの。 声も、笑い方も。 なのにいない。 いつから、いなかったのかも、わからないの……」
「⋯⋯りんちゃん」
「私、おかしくなったのかな⋯⋯」
言葉にしたら、止まらなくなった。 ぽろりと、涙が頬を伝う。
舞香は、何も言わなかった。 ただ、私の手を、強く握り直しただけだ。
「⋯⋯りんちゃん。 とりあえず、上がって? ね?」
「⋯⋯うん」
「ゆっくり、お話、聞かせて。 お姉ちゃんには、私から言っておくから」
舞香に手を引かれて、私は桐原家の中へと足を踏み入れた。
私には、舞香がいる。 その安心感だけで、今は十分だった。
ーーしかし、その安心は一瞬で崩れた。
「お母さん、お父さん。 この子が凛ちゃん! 私たち親友なんだ!」
「……えっと。 どこにいるのかしら?」
「なに言ってるの? ここにいるでしょ!」
舞香の声が、誰もいないリビングに響いたのだった。




