偽りの仮面
私は、お母さんの手を、もう一度、強く握り直した。 冷たかった手が、私の手の中で、少しずつ、温もりを取り戻していく。
「もう、心配かけないから」
「……瑞稀」
「みんないる。 私、ひとりじゃないから」
ーー嘘だ。 誰も信用できない。 それでも、お得意の誤魔化しで取り繕う。
すべては、お母さんを安心させる、ためだけのーー
お母さんの目が、また潤んだ。 けれど、もう嗚咽は漏れなかった。 代わりに、小さく、ふっと、笑った。
泣きながら笑う、その顔を見ていたら、胸の奥が、きゅう、と締めつけられた。
「……そう。そうよね」
「うん」
「ごめんね、瑞稀。お母さん、急に、取り乱して」
「ううん、ごめん。 私がさっき、変なこと言ったから……」
「……瑞稀」
お母さんが、少し、考えるように、目を伏せた。
「……ねえ、瑞稀」
「うん」
「さっきのは、忘れていいのよね?」
「……」
「元の世界、とか護のこととか。 お母さんが、深く聞かないほうが、いいことなのよね?」
お母さんの目が、まっすぐ、私を見ていた。 お母さんは、たぶん、わかっている。 私が今、何かを抱えていること。 それを全部、説明できないこと。
その上で、お母さんは、聞かないでおいてくれようとしている。
「……うん。 ごめん、お母さん」
「いいのよ。瑞稀がいい子なのは、お母さんが、一番、知ってるから」
「……」
「ただ、ね」
お母さんが、ゆっくり、息を吸った。
「お母さん、ね。 ずっと、後悔してたの……」
「……」
「あの時私、仕事を言い訳にして……貴方がどんな顔して学校に行ってたかも、朝も会話すらしないで、ちゃんと瑞稀を見てなかった」
「……」
「朝、『いってきます』って言う声が、だんだん小さくなってって……」
「……」
「気づいた時には、瑞稀、部屋から、出てこなくなってて。 もちろん、ずっと、心配してたのよ? 信じて、瑞稀!」
お母さんの声が、震えていた。
「ご飯、置いといても、食べてなかった日もあったわね。 お母さんが夜、こっそり覗いたら。 瑞稀布団の中で、ぶつぶつ、何か、言ってて……」
「……お母さん」
お母さんの手が、私の手を、握り返した。 今度は、お母さんのほうが、強く、握っていた。
「数ヶ月、経って。 ある日、突然瑞稀が、部屋から出てきて。『お母さん、お腹すいた』って、言ったの。 覚えているかしら?」
「……覚えているよ」
「お母さん、その時台所で、泣いちゃって……瑞稀の前じゃ、泣けないから、トイレに駆け込んで、声を殺して泣いたわ……」
「……」
「神様、ありがとうって。 瑞稀を返してくれて、ありがとうって」
その光景が、見える気がした。 台所で、泣いているお母さん。トイレで、声を殺しているお母さん。
「お母さん、ごめん」
「謝らないで! いいの。 いいのよ、瑞稀……」
お母さんが、私を、引き寄せた。 お母さんの胸に、顔が、埋まった。 石鹸の匂いがした。 子どもの頃、私が泣いた時、いつも嗅いでいた匂いだ。
「お母さんね……瑞稀が理想学園に行くって決めた時、瑞稀の味方でいようって決めたのよ」
「……うん」
「もう、絶対に目を離さないって」
「……うん」
「もし瑞稀が、またしんどくなったら、今度こそちゃんと気づくって。 でも、無理だったわね。 それどころか、貴方の存在自体も忘れちゃうなんて……」
「……」
「美羽ちゃんに言われて、思いだしたの。 ……思い出した時、最悪だったわ。 なにもかも、嫌になっちゃった……」
お母さんの手が、私の背中を、ゆっくり、撫でた。
「美羽ちゃんが、家に来てくれた時、お母さん本当に嬉しかったの……」
「……」
「あんなに明るい子が、瑞稀の友達なんだって」
「……うん」
「舞香ちゃんも、来てくれたでしょ。 あの子、礼儀正しくて、しっかりしてて。瑞稀のこと、すごく、大事にしてくれてるのが、わかったわ……」
「……うん」
お母さんの声が、だんだん、優しくなっていく。
「みんな、いい子で。 瑞稀には、こんなに素敵なお友達がいるんだって……お母さん、本当にほっとしたの」
「……」
「もう、瑞稀はひとりじゃないんだって」
「……うん」
「もう、これでいい…… 私はもう、いなくてもいいのよね?」
「……」
「……さっき、美羽ちゃんがね? 『お母様。 後は全て、私におまかせなのだわ! 絶対に瑞稀を救ってみせるのだわ!』って言ってくれたの。 ……彼女は、私よりも瑞稀を見ているわ……」
ーーああ。 私は、お母さんの胸の中で、わかってしまった。
お母さんのこの世界での役目が終わった。 お母さんは「私が幸せになる」ことだけを願って、存在していたんだ。
その願いは櫻井さんに託された。 だからもう、いる必要がないんだーー
私は、お母さんの胸から、顔を、上げた。
「櫻井さん。 ……美羽はね、変わってるんだけどね、すごく面白い子なんだよ。一緒にいると、毎日がお祭りみたいで」
「……」
ーー嘘だ。 本当は、櫻井さんに一番怯えている。 私の大好きだったミウミウにそっくりな別の存在だって思っている。
ーーだけど。 今だけは嘘をつく。 すべては、お母さんのために。
「お母さんが、心配しなくても、私、ちゃんと笑って生きていけるから!」
「瑞稀……」
お母さんの目から、涙が、ひとつ、こぼれた。 でも、それは、さっきまでの、苦しそうな涙じゃなかった。
「お母さん、ね。 ……もう、行かなきゃ……」
ーー来た。 胸の奥が、ぎゅう、と、痛くなった。 正直寂しくてたまらないよ。でも、私は、頷いた。
「行っても、いい?」
「うん」
「瑞稀のこと、置いてっても、いいのね?」
「うん……」
声が、震えた。 でも、止めなかった。 ーー止めたら、お母さんが困る。
お母さんは、もう満足してるんだから。 不安は絶対に顔に出さない!
「お母さん……」
「なあに?」
「ありがとう。 私のために……」
言葉が、勝手に出ていた。 元の世界に戻ったらーー
「……また会おうね、お母さん」
お母さんが、ふわりと、笑った。 私の知っている、いつもの、優しいお母さんの顔だった。
「ううん。お母さんのほうがありがとう、だわ……」
「……」
「お母さんはね、瑞稀のこと、ずっと、大好きだから」
「……うん」
「ひとりで、抱え込んじゃ、だめよ」
「……うん」
お母さんが、私をぎゅっと、抱きしめた。 強く、抱きしめた。
私の体が、お母さんの腕の中で、すっぽり収まった。
子どもの頃、こうやって、抱きしめてもらった記憶が、蘇ってきた。
お母さんの、匂い。 心臓の音。 全部、全部、覚えていたいーー
「……瑞稀」
お母さんの声が、耳元で、優しく、響いた。
「いってきます」
ーーいってらっしゃい、お母さん。 声には、ならなかった。
代わりに、私は、お母さんの背中に、回した手に、ぎゅっと、力を込めた。
お母さんも、ぎゅっと、抱き返してくれた。 しばらく、そうしていた。
数秒だったかも、しれないし、数分だったかも、しれない。
ーーやがて。 腕の中の温もりが消えた。
羽が、抜けていくみたいに。 私は、目を開けなかった。
開けたら、お母さんが、もう、いないことを、確かめてしまうからーー
「……」
そっと、目を、開けた。 ソファの上には、私一人だけが、座っていた。
クッションには、お母さんが座っていた跡もない。最初から、誰もいなかったみたいに。
でも、頬には、お母さんの手の温もりが、まだ残っている気がした。 背中には、お母さんに抱きしめられた感触が、まだ残っている気がした。
「……お母さん、ありがとう」
「瑞稀! それが貴方の答えでして? 私は納得いきませんわよ! お母様にすら、本心を偽るなんて!」
「櫻井さん……」
一人で沈みたい気分なのに、邪魔しないでよ、偽物ーー




