瑞稀の過去(中学三年生)その2
私が引きこもりになった、決定的理由は、十一月の体育祭の予行練習の日だった。
私の体操服が、消えていた。
更衣室の自分のロッカーは、空っぽだった。 クラスの女子たちは、何も見ていないふりをして、次々と更衣室を出ていった。
最後に出ていく時、三人組が瑞稀の耳元で囁いた。
「今日、ちゃんと探してね? 根暗石ちゃん~」
「欠席すんじゃねえぞ! 根暗石!」
「逃げるなよ? 根暗石」
「⋯⋯」
ーー根暗石。 いつの間にか私につけられていた、あだ名だ。
根が暗いのと、倉石を合わせたらしい。
私は、一人、空っぽのロッカーの前に立っていた。 窓の外で、号令の声と、笛の音が響いていた。
全校生徒が、グラウンドに集まっていた。 私だけが、誰もいない更衣室にいた。
体操服は、その日の放課後見つかった。 校舎裏の池に沈んでいるのを、私が見つけたのは、翌日の朝だった。
水を吸って重くなった布を、私は両手で引き上げた。
名札の刺繍が、ぐしゃぐしゃに、ハサミで切り刻まれていた。 その瞬間、私の中で、何かが、ぷつんと切れた。
翌朝、私は、布団から出られなかった。
「アイツらを呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う⋯⋯」
部屋でぶつぶつと呪詛が溢れる。 そんな私の様子を弟は無表情で眺めていた。
朝飯を食いにこない私に、お母さんが部屋をノックする。 しかし、私は反応しなかった。
私はアイツらを呪うのに忙しくてねーー
やがて、お母さんは部屋に入ってきた。
そして、絶句した。 部屋と私の様子にーー
「⋯⋯み、瑞稀! なんなのこれ!」
「⋯⋯ああ。 みちゃた? これはね~ 呪いの儀式だよ!」
ーー弟が教えてくれたんだ。
私がそういうと、お母さんは私に抱きついて、涙を流した。
ーーああ、いいなぁ。 お母さんは涙を流せるんだ~
私は、お母さんに言った。
「ごめんね、瑞稀。 ごめんね⋯⋯」
それに対して、お母さんがそう繰り返していた。
何度も、何度も。 私には、なぜ謝るのか、その時は分からなかった。
ーー気づいてあげられなくて、ごめんね。
それを、母は言っていたのだと、ずっと後になって、瑞稀は理解した。
不登校になってから、瑞稀は、長いあいだ、布団の中で過ごした。 ただ天井を見ていた。
ーーそして、弟と会話する。
もう、バレないようにヒソヒソ話す必要はない。 でもその度に、遠くでお母さんとお父さんの泣く声が聞こえる。 お母さんは仕事を辞めていた。
朝が来て、昼になって、夜になる。 それだけのことが、こんなに静かだったことを、私は忘れていた。 学校に行かない、というだけで、世界はこんなに静かなのだ。
あの教室の、絶え間ない笑い声と囁き声と視線。 それが、本当に「世界」だと思っていた私が、信じられなかった。
三人組は新しい玩具を見つけたのだろう。 そして何事もなかったかのように、卒業して、高校に進んだのだろう。 彼女たちにとって、私は、半年ぶんの暇つぶしでしかなかった。
ーーそれが、一番、許せないことだった。 憎くて、悔しくて、何もできない自分を恨んだ。
私の半年を、彼女たちは「暇だったから」という理由だけで、奪っていった。
そのことを、瑞稀は、たぶん一生、忘れない。 奴らを絶対に許さないーー
私は理想学園の試験を受けた。 幸い、学力だけはあったので合格して、しかも一位だったようだ。
その学校は、誰も瑞稀のことを知らない、とても特殊な学校だった。
瑞稀は、長いあいだ、パンフレットの表紙を見ていた。 桜の咲く校門の写真。 笑っている、知らない高校生たち。 自分が、その中に立っている姿は、まだ想像できなかった。 それでも、私は憧れる。
そう言った自分の声が、半年ぶりに、少しだけ、自分のものに戻った気がした。
中学時代の傷は、消えない。 あの三人の顔は、たぶん、一生忘れない。
人混みの中で、笑っている声を聞くと、今でも心臓が冷たくなる。 それは、これからもずっと、続く。 でも、瑞稀は、布団から出ることができた。
それは、たった一つだけれど、確かな、最初の一歩だった。
弟はじっと私の近くで見つめていたーー




