交錯する者たち
数字は一定の速さで増え続けていた。
四〇%に達したところで、ようやく腰を上げた。手のひらの新しい傷を押さえながら、曲がり角のほうへ駆け出す。
右へ曲がった瞬間、嫌でも分かった。
あの声は、距離を取っても小さくならない。
同じ言葉を、淡々と繰り返している。
[60%……65%……72%……]
キャンパスの途中で足を止めるしかなかった。
目当ての大学棟ならすぐ先だ。だが、こんな状態で向かうのは得策じゃない。
しかも運の悪いことに、周りには誰もいない。
「一〇〇%になったら……何が起きるんだ?」
そう思った直後だった。
[エネルギー集中完了。起動します]
次の瞬間。
茂みの中から閃光が放たれ、立つ方向だけを照らした。
最初から狙っていたかのように。
いや、実際そうなんだろう。
ほとんど間を置かず、空間そのものが歪み始める。
そして身体は、あの忌々しい小道へと引き戻されるように吸い込まれていった。
あまりに突然で、頭がついていかない。
視界に映ったのは、秋らしい灰色の空。
それを最後に、意識は途切れた。
◇◇◇
冷たさ。
そして、無数の色彩が混ざり合う感覚。
……目は開くんだろうか。
試しに開いてみる。
そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
落ちていた。
紫と緑が絡み合う巨大な螺旋の中を、ひたすら下へ。
その外側には、数えきれない星が瞬いている。鮮やかな星雲、見たこともない天体。息を呑むほど美しくて——同時に、どうしようもなく孤独な場所だった。
どれくらい落ち続けたのか、見当もつかない。
十分だったかもしれないし、一年だったかもしれない。
ここでは時間の感覚そのものが狂っている。
空間も同じだ。重力すら、あやふやだった。
まずは状態を確かめる。
転移させられたうえ、宇宙空間らしき場所に放り出された。それでも身体は無事だった。服も残っている。
……よし。
次は、この状況の理屈を誰かに説明してほしい。
そんなことを考えていると、頭上から騒がしい音が近づいてきた。
見上げると、もう一人の落下者がいた。
こちらより上にいるせいで、最初は黒いブーツしか見えない。
だが、手足を振り回して叫んでいる様子はよく分かった。
声を張り上げる。
「おーい! 下だ! こっち見ろ!」
相手がこちらに気づき、視線を向ける。
顔はまだよく見えない。だが、淡い金色——いや、黄金色と言ったほうが近い髪が、まるで光を放っているようだった。
「ウラ! ヌルトニ、イラ!」
何かを叫んでいる。
意味はまったく分からない。
……いや、あれが彼の言葉なんだろうか。
「何だって!? もう一回言ってくれ!」
「クリニ・ルトゥ、イラムン!」
今度はさらに大きい。
距離は、みるみる縮まっていく。
近づくにつれ、彼が別の言語を話しているのがはっきり分かった。
考えてみれば当然だ。人間の言葉は一つじゃない。
ただ、その発音は聞いたことがないほど異国的だった。
やがて相手の顔が見えてくる。
若い男だった。二十代前半から半ば、といったところか。色白で、黄金色の髪。薄汚れた黒い外套をまとっている。
もう一度話しかけようとした、その時だった。
ポケットが熱を帯びた。
慌てて手を突っ込む。指先に触れたのは、金属の感触。
「まさか……」
取り出したのは、例の装置だった。今度は鈍い光を放っている。
落ちている螺旋も、さらに輝きを増していく。
落下速度は徐々に落ち、周囲の空間は次第に密度を増していった。
そして装置のインジケーターが緑に変わった瞬間。
ぴたりと止まった。
「っ……!」
内臓が浮き上がるような感覚。だが、耐えられないほどじゃない。
螺旋を作っていた光の筋の隙間から、蒼い光が溢れ出す。
その光は瞬く間に宇宙の景色を覆い尽くしていった。
やがて空間そのものが輪郭を持ち、まったく別の光景を映し出す。
——異世界。
何の断りもなく、二人を引きずり込んだ世界。
◇◇◇
それから、しばらくして。
◇◇◇
どうやら、また長く気を失っていたらしい。
感覚的には十時間以上眠っていた。学生にとっては贅沢すぎる睡眠時間だ。
閉じた瞼の向こうから、陽光が差し込む。
ゆっくり目を開けると、青空が広がっていた。白い雲が穏やかに流れている。
緑の草原に横たわっていた。所々に野花が咲いている。
あまりにも見慣れた風景だ。異世界だの宇宙だのと言われるより、よほど現実味がある。
もしかして、全部夢だったんだろうか。
だとしたら、早く大学へ行かないと。
起き上がろうとする。身体に力が入らない。長く動いていなかったせいか、筋肉がすっかりなまっていた。
「気のせいだったのかもな……」
そう呟いて、周りを見渡す。
どこまでも続く緑。遠くでは地面がなだらかに下っている。どうやら丘の上らしい。
その時、不意に思い出した。
俺たち。
そうだ、一人じゃない。一緒に落ちていた男がいた。
立ち上がって、辺りを見回す。
ほどなくして見つけた。黒い外套を羽織り、その下に茶色の服を着た青年が、背の高い草の上で横向きに眠っている。
「……やっぱり、夢じゃなかったか」
痛むこめかみを押さえながら呟く。
すぐには起こさず、先にジーンズのポケットを調べた。
装置はちゃんと残っている。ただし光は消え、灰色になっていた。
正体不明とはいえ、機械である以上、何らかの操作はできるはずだ。
形は楕円形。手のひらに収まる程度の大きさ。
そういえば、手の傷も少しずつ治っている。
装置の側面には二本のラインが走っている。最初に触れた時、そこを白い光が通り、上部のインジケーターへ流れ込んでいた。
なら、中央が操作部だろう。
試しに押してみる。
……反応なし。
まあ、そう簡単にはいかないか。
装置をポケットに戻した。
少し落ち着いたところで、眠っている青年を起こすことにした。
肩を数回揺すると、彼はすぐに目を開けた。寝ぼけながら立ち上がり、不安そうに周りを見回している。
どうやら、彼にとっても見知らぬ土地らしい。
近くで見ると、かなり背が高い。十三センチは高そうだった。
「ジラス、グエツ! ユルス!」
彼が再び、理解できない言葉を口にする。
肩をすくめた。何も分からない、という意思表示だ。
すると彼は両手を大きく動かし、周囲の景色を指差し始めた。
「エス? エス?」
問いかけるような声。
「何を言ってるのか分からない。悪いけど、理解できないんだ」
腕でバツ印を作って答える。
その時だった。
ピッ。
装置から短い電子音が鳴る。
[相反する二種の言語を検知。翻訳機能を起動します]
今度は、眩しい閃光はなかった。
だが頭の奥で何かが切り替わる感覚が走る。同時に、周囲の空間が微かに火花を散らした。
「……これ、どういう仕組みなんだ?」
相手というより、自分自身への独り言だった。
青年は装置とこちらを交互に見た。その顔には、驚きが浮かんでいる。
……もしかして。
通じるようになったのか?
「ごめん! 今、俺の言葉が分かるか!?」
目の前の青年は、さらに目を見開いた。
だがその驚きの中には、確かな喜びも混じっていた。
「ル……いや。ああ! 分かる! ちゃんと分かるぞ!」




