二つの月
ありがたいことに、これで言葉の壁はなくなった。
「そりゃ助かる」
思わず笑みがこぼれる。
「ところで、ここがどこなのか分かるか? それに、どうして俺たちはここにいるんだ?」
装置が起動した時、こいつの姿はなかった。
つまり、俺とは別の経路でここへ来たってことか。
「いや、さっぱりだな」
体についた草を払いながら、青年は肩をすくめた。
「むしろこっちが聞きたいくらいだ。さっきから何度も話しかけてたんだけど、通じなくてさ。ていうか、どうして急に会話できるようになったんだ?」
予想通りだ。どうやら彼も事情を知らないらしい。
もう装置を見られている。今さら隠しても意味はない。
「これだよ」
右手を開き、灰色に淡く発光する黒い装置を見せた。
「この変な機械が、俺をあの場所へ送り込んだ。それと、多分だけど翻訳機能もある」
青年は興味深そうに近寄ってくる。
「これで互いに分かり合えるってわけか」
「たぶんな」
「ちょっと触ってみてもいいか?」
「どうぞ」
装置を手渡す。
彼はあらゆる角度から観察し、ひっくり返したり、押したりしていた。
やることは俺とほぼ同じだった。
数秒後、装置が返される。
「駄目だ。使い方が全然分からない」
ノヴァは深いため息をついた。
「持ち主に聞くのが早いんだろうけど、君も知らないみたいだな。その様子だと」
「まあ、その通りだ」
苦笑するしかない。
青年は改めてこちらを見た。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな」
右手を差し出す。
「ノヴァだ」
「よろしく。俺はアルマン」
握手を交わした。
「アルマンか。珍しい名前だな。初めて聞いた」
「実はそこまで特別じゃないんだ。カザフ語っていう言語で、『夢』って意味なんだ」
「夢?」
ノヴァが小さく目を見開く。
「カザフ語っていうのは、言語の名前か?」
「ああ」
「聞いたことないな」
「世界には何千も言語があるんだよ。まあ、カザフ語のコンテンツはほとんどないけどな」
「なるほど」
ノヴァは遠くを見つめた。
「……とにかく、まずは現在地を確認しないと」
そう言って歩き出す。
後を追いながら周囲を見回した。
どうやら小さな丘の頂上にいたらしい。
麓にはどこまでも広がる草原。ところどころに細い道が走っている。
太陽は南西へ傾き始めていた。影もかなり長い。
もう昼はとうに過ぎている。
「下りよう」
ノヴァが斜面を降り始める。
その途中、地面に見覚えのあるものを見つけた。
俺のリュックだ。中にはノート数冊とペンが入っている。
今のところ役には立たないが、貴重な持ち物には違いない。
「君のか?」
ノヴァが振り返りもせず聞いてくる。
「ああ。転移の時に落ちたんだろうな」
回収して再び歩き出した。
やがて一本の長い道へ出る。
人が踏み固めたような跡だ。どこかへ続いているのは間違いない。
それからかなりの距離を進んだ。
しかし人工物らしきものは何も見つからない。
気づけば空は茜色に染まり始めていた。
このままだと野宿確定だ。それは避けたい。
途中で休憩することにした。提案したのは俺だ。
空腹だった。考えてみれば随分長いこと何も口にしていない。
幸い、大学へは腹を空かせたまま行ったことがない。
リュックから弁当箱を取り出す。中には朝、母が作ってくれた麺とパンが入っていた。
残っていた分をノヴァと分け合う。
「うまいな……」
ノヴァが感動したように呟く。
「あっという間に食べ終わりそうだ。こんなの初めてだ。これも……君の世界のものなのか?」
「普通の家庭料理だよ。母が朝、容器に入れてくれたんだ」
そう言いながら残りを口へ運ぶ。
だが、ふと胸が痛んだ。
母は心配しているだろうか。講義が終わっても帰らず、電話にも出ない息子のことを。
ここに電波なんてあるのだろうか。
スマホを取り出して確認してみる。
予想通り圏外だった。バッテリーは六十四パーセント。
無駄遣いはできない。
食事を終えると容器を片付ける。
そして、気になっていたことを切り出した。
「なあ、ノヴァ」
「ん?」
「君はどこから来たんだ? あの空間へ飛ばされる前のこと、何か覚えてるか?」
その瞬間。
ノヴァの表情が固まった。
視線が宙をさまよう。外套の端を握る指先にも力が入っていた。
何かを思い出そうとしている。そんな様子だった。
やがて眉をしかめる。
次の瞬間、両手で頭を押さえた。
「っ……」
苦しそうな声が漏れる。
「どうした!?」
「分からない……」
震える声だった。
「思い出せないんだ」
嫌な予感がした。
「何もか?」
「断片だけなら……」
荒い呼吸の合間に、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「冷たい金属の壁。恐怖。長い列。そして……眩しいオレンジ色の光だ」
ノヴァは目を閉じた。
「誰かに命令されて台の上へ立たされた。その後に衝撃があって……爆発が起きた」
額に汗がにじむ。
「その後は君と落ちていた記憶しかない。名前は覚えてる。ノヴァだ。番号も……二十一だった気がする」
そこまで話すと首を振った。
「駄目だ。そこから先がない。人生の一部を無理やり切り取られたみたいに」
記憶喪失か。
状況を考えると最悪の情報だった。ここがどんな世界なのかすら分からないのだから。
「無理に思い出そうとするな」
肩を軽く叩く。
「何とかなるだろ。追い追い考えよう」
「……そうだな」
ノヴァも苦笑した。
その頃には太陽が地平線の向こうへ沈み切っていた。
空は濃い青紫色へと変わる。
そして、この世界が地球じゃないと確信した。
森の向こうから、二つの月が姿を現したのだ。
片方は大きく、淡い青緑色。
もう片方は小さく、紅玉のような赤い光を放っている。
道路脇の草や低木までもが、ぼんやりと緑色に発光し始めた。
空気も急激に冷え込む。
その直後。
森の奥から低く重々しい咆哮が響いた。
犬でも狼でもない。聞いたことのない獣の声だ。
ノヴァの雰囲気が変わる。
先ほどまでの穏やかさが消えた。
瞳が細まり、全身に緊張が走る。
まるで危険に慣れた人間の反応だった。
「ここに留まるのは危険だ」
低い声で言う。
「夜の平原は目立つ。格好の獲物になるぞ」
「同感だ」
リュックを背負い直す。
「月が二つある時点で十分異常だしな。そのうえ色までおかしい」
ノヴァは夜空を見上げた。
「確かに」
ありきたりな返事だな。まあ、俺も当たり前のことを言っただけだが。
心の中でだけ突っ込む。
しばらくして、丘の向こうに小さな光を見つけた。
森の隙間から漏れる暖かな黄色い明かり。
焚き火か。あるいは建物の灯りかもしれない。
向かおうと一歩踏み出した時だった。
ポケットの中で装置が震える。
聞き慣れた機械的な女性の声が、脳内に直接響いた。
もう疑う余地はない。あの時、血が付着したことで完全に同期したのだろう。
[環境分析完了。]
[座標特定:中央大陸、エリディウム州。]




