エルンとセイレア
フィルが帰宅の途に着き、ウィルフォードがヴァレリスと領都神殿に出かけたその日。
薄く陽の差し込む廊下で、二人は行き合った。
「……エルン師」
セイレアが歩みを止め、静かに一礼する。
「この度は、我らの子のためにご尽力いただき、ありがとうございました」
「私は何もしておりませんよ」
穏やかな声音で、エルンは答える。
「天の方々はそういうものでしょう。ただそこにあって、風の向かう先を照らし、見守っている——」
一度言葉を切り、セイレアはわずかに微笑んだ。
「……いえ、天のお方に申し上げるには僭越な物言いでしたね。ただ、私がお礼を申し上げたいだけなのです。魔力風穴の見届けと——それから、ウィルフォードとフィルを見守ってくださり、ありがとうございました」
エルンが苦笑する。
「ウィルフォード殿はともかく、フィルに関しては、こちらこそ見守りが行き届かず大変申し訳ありませんでした。……この一月、領主殿が約して下さった通りフィルの安全を守ってくださり、フィルの後見としてお礼申し上げます」
セイレアが声を上げて笑った。
「フィルは本当に大物ですね。天のお方にそんなお顔をさせるなんて」
「子どもというのはみな大人の想像を超えてくる存在だということを、再確認いたしました。……だからこそ、世界がより良くなる希望も持てるというものです」
「私、フィルにはぜひ次期領主夫人の側近として働いてもらいたいと思っていますの。……統承二位の家でも、もちろん良いですけど」
「次代の風領の発展を楽しみにしております」
そう言って、エルンは静かに目を細めた。
「セイレア殿のご不安は、もう晴れましたか」
「そうですね……。もちろんウィルフォード殿の行末に心配がないとは申しません。あの子の状態は、前例のないことのようですし」
そう言って、セイレアはエルンを見上げる。
「ただ、ウィルフォード殿自身が進む意思を持ってくれた以上、なんとかなるのではないかと思えたのですよ。……たぶん、レイネシア殿も」
セイレアはふふと笑った。
「天のお方、聞いていただけます? ……こんなに色々大変だったのに、レイネシア殿が、また私の目を見てくれるようになったことが、私はとても嬉しいのですよ」
エルンが微笑んだ。
「レイネシア殿と良き関係を築かれたようで、安心いたしました」
セイレアもまた微笑み……そしてつと、陽の差し込む窓へと視線を流す。
「……ソアリスが天に行ってしまったとき、ありとあらゆることが悲しくて。立ち上がり方もわからなくなって。……レイネシア殿が産む子を大事にできるか、本当は不安だったんです」
四領に配属される天神官には、人々の悩みを聞く役割もある。唐突に始まったセイレアの話に、エルンは神殿でそうするように、ただ黙って耳を傾ける。
「レイネシア殿が私にすごく気を遣うようになってしまったのを……今だから言いますが、正直なところ、うっとうしくすら感じていました。レイネシア殿も、ソアリスのことを本当に悼んでくれているのはわかっていたけれど」
「……人の心というのは一色だけではありませんが、大きすぎる悲しみのそばでは、その周辺の色も引きずられるものです。ましてや他者に向かう気持ちなど、思うようにはならないでしょう」
「ええ、本当ですね。でもレイネシア殿が水領から帰ってきて、その腕に抱かれたウィルフォード殿を見たとき……色々感じることはあったのですけど、それでも、可愛いと思えたのですよ。ファビアンの生まれたときにも、ソアリスにも似ているところがあって。あの子たちの、弟だ、と。……そして、自分がそう思えたことに、安心しました」
「ファビアン殿とウィルフォード殿も、良きご兄弟でいらっしゃるようで何よりです」
「本当に。ファビアンが領主になってからも、何よりの味方となってくれるでしょう。……もちろん、属性や他領との縁という意味合いもですけど、根っこのところで味方であってくれる、信頼できる存在があるというのは、本当に心強いですから」
「セイレア殿と、レイネシア殿のように?」
あら、とセイレアは瞬きをする。
「そんな風に見えますか? 色々と口さがない向きもありますけれど」
「世情にはさまざまな見方があるかもしれませんが、少なくとも私には、お二人の関係は調和のもとにあると思えましたので」
セイレアが表情を綻ばせる。
「ええ、レイネシア殿は良い友です。同志のような、妹のような」
エルンが深くうなずいた。
「それは何よりです。──ご結婚前は、だいぶお悩みの様子でしたから」
「……え?」
エルンの言葉がセイレアの記憶の奥を刺激した。嫁ぐ前、まだ十代の少女だったセイレアの嘆きをただ聞いてくれた神官様。
顔立ちはよく覚えていないが、天の方々に多い薄い金色の髪をしていたような気がする。
嫁ぐ前から妻が増えることまで決まっているなんて、そんな方と仲良くやっていけるわけないじゃない——そう憤りをこぼすセイレアに向けて困ったように微笑んだ瞳も、同じ薄い金色で……。
言葉を失うセイレアをよそに、エルンはいつもの調子で続ける。
「あなた方の調和を、天もまた見守っております」
それだけいうと、エルンは一礼してその場を辞した。
静けさが戻る。
廊下にひとり、セイレアは小さく息をついた。
「……覚えていてくださったのね。あの時の、あんな子どもの愚痴を」
ふっと表情が和らいだ。
◇◇◇
――エルン=メナ=メディエル
文書室で、セイレアは一つため息をついた。
セイレアの出身地にある神殿の、およそ二十年前の名簿にその名は載っていた。
「……ひょっとしたら、探せばもっとあるのかしらね」
セイレアの独り言に答えるかのように戸が開いた。
「セイレア様?こちらにいらしたのですね」
「アウローラ殿。なにかあって?」
「はい、領主様がご相談があるので、お手隙になれば執務室へ来て欲しいと。お急ぎではないとのことですが」
「大丈夫よ、今から行くわ」
セイレアが名簿を閉じると、アウローラがそれを手に取った。
「……神殿の名簿ですか?」
「ええ。元の場所に戻してもらえる? 二十年前の棚よ」
「承知しました」
そう言って名簿を手に取ったアウローラが、セイレアの方を見て首を傾げる。
「どうかして?」
セイレアの問いかけに、未来の義娘はとまどったように言葉を継いだ。
「……いえ、なんと言いますか……。懐かしそうな、安心されたようなお顔をされているので」
「あら」
セイレアはくすりと笑う。
「なんでもないわ。ただ——」
セイレアは窓の方を振り仰ぐ。薄日のさす窓。あの時の廊下にも、二十年前のあの部屋にも、こんなふうに柔らかい日が差していたような気がする。
あの神官の雰囲気にどこか似ていると思いながら、セイレアは続けた。
「二十年経っても変わらないなんて、少し不公平だと思っただけよ」
「……?」
アウローラが小さく首を傾げる。セイレアはそれ以上何も言わず、部屋を出た。
セイレアの後ろを歩くアウローラが、ふと視線を巡らせた。
「アウローラ殿?」
声をかければ、アウローラが僅かに気まずげな様子を見せた。
「いえ、静かだなと思いまして」
セイレアはくすりと笑う。
「フィルさんが帰ってしまって、寂しいのでしょう」
「そんなことはございません」
即座の否定だった。
「あら、私は寂しいわ。良い子だったもの」
「……」
「寂しかったわ」
ともに風領と風領の未来を担う子どもたちを、一緒に見守り育てていくはずだった友が視線を合わせてくれなくなって。
でも、きっと。
セイレアはアウローラに視線を向けた。
「今からでも遅くはないわね」
「……?」
なんでもないわ、とセイレアは言った。
「フィルさんが上級学校を卒業する日が楽しみね」
「ですから……いえ、確かに楽しみです」
先ほどのように否定しかけたアウローラが、ふと意見を変えた。
「私の教えがどの程度通用するのか、証明してもらわないと」
——子どもというのはみな大人の想像を超えてくる
——次代の風領の発展を楽しみにしております。
「本当に、楽しみだこと」
セイレアの独り言に答えるように、窓の光が揺れた。




