領主館のもてなし
日が昇り切ってしばらく、グラスリーの鷲台によく似た岩場が見えてきた。
「フィルさん、鷲が傾きますのでしっかりつかまっていてください」
「はい」
不意に鷲が翼を広げ、のけぞるようにして風を受ける。急な減速に、体が鷲に押し付けられた。再び翼を水平に戻した鷲が今まで乗っていた風から降りて、ゆっくりと岩場に向かっていく。
開けた場所が見えた。ここの風読みだろう、ドルフよりは若く見える男が腕を回している。
そのまま鷲は音もなく着地……とはいかなかった。一歩、二歩と地面を跳ねるように進んだ後、ようやく風から重力へと乗り換える。そして一度翼を広げてぶるりと身を震わせると、鷲はその場に身を伏せた。
「降りられますか?」
先に降りたセリウスが手を差し出してくる。フィルは体から伸びる縄の鉤を外そうとした。
「あれ?」
指先が震えて、小さな穴に引っ掛けた鉤がうまくつまめない。と、横合いから手が伸びた。むすっとした顔の風読みがフィルのかわりに鉤を外し、そのまま子どもにするようにフィルの脇に手を差し入れて鷲から下ろした。
風が吹いた。風読みがそちらを向いて顔をしかめる。
「セリウス様、あれは?」
「ああ、エルン師も到着されますね」
風読みの顔色が変わる。
「誰です、それは」
「あー……ちょっと予定外で」
曖昧なセリウスの返答に風読みが血相を変えて詰め寄った。
「何の話です? ちゃんと飛べる乗り手なんでしょうね!?」
「乗り手というわけではないんだが……まあ、大丈夫とおっしゃるので」
そこまで聞いた風読みは焦ったようにフィルたちの乗ってきた鷲から十歩ほど距離を空け、先ほどのように腕を振り回し始めた。すると空中でエルンの乗った大鷲が翼を広げて静止し、風読みの開けた空間にふわりと音もなく舞い降りた。
風読みが安堵の息を吐くのが聞こえた。騎乗していたエルンが体を起こしてひらりと降りる。
「ご連絡も無しにすみません。グラスリーの白迅をお借りしました」
ぽかんとしている風読みに、エルンが鷲の名を告げて手綱を差し出す。風読みはハッとしたように手綱を受け取った。
「はい、確かに」
鷲の様子を確認した後、風読みが恐る恐るエルンを見上げる。
「……グラスリーで、鷲に乗ってらしたんですか?」
「いえ。五年前にこの地に赴任した時、手ほどきを受けました」
「五年前って……」
そこでパン、とセリウスが手を叩いた。
「エルン師、無事の到着、さすがですね。何か問題はありませんか?」
「私は大丈夫です。そちらは?」
「どうにか」
エルンの顔がフィルに向く。フィルは大丈夫です、と言いながら一歩踏み出そうとして、そのまま膝がかくっと抜けた。
「……あれ?」
ぺたんと座り込んだフィルをセリウスが覗き込んだ。エルンも急ぎ足でこちらにやってくる。
「気持ち悪かったり、どこか痛んだりはないですか?」
「だ、大丈夫です」
エルンがフィルの目前にしゃがむ。
「目の見え方は、普段とかわりないですか? 耳鳴りなどは?」
「目は平気、です。耳は……ちょっとキーンってするかも」
エルンがフィルをそっと立たせる。
「降りてすぐは立てていましたね。ふらついたりはないですか?」
「大丈夫だと思います。歩き出そうとしたら、かくんってきちゃって」
セリウスが風読みに声をかける。
「すまない、二羽を頼んでいいか。……とりあえず館に入りましょう。すぐそこに、腰掛けもあります」
フィルはセリウスの視線の先を追った。
(……領主館だ)
たまに領都に出たとき見上げる丘の中腹にそびえていた、立派な館。それが今、フィルの目の前にそびえ立っていた。
◇◇◇
歩き出すうちに脚の違和感は治った。けろりと歩き出したフィルにセリウスが安心したようにため息をつく。
「大丈夫そうですね。……早速ですが、移動をお願いできますか」
セリウスに案内され、階段を降りる。屋敷の奥に向かって、通された部屋にはふかふかの絨毯が敷いてあった。絨毯も壁にかけられたタペストリーも、派手ではないが高級品の風合いをしている。
「朝食はとっていませんよね。そろそろお腹は空きませんか」
「え、あ、お構いなく」
セリウスの問いかけに反射的にそう答えたところで、フィルのお腹がなった。
「……」
「飛行に備えてあまり食べないようにと言いましたから。喉も乾いたでしょう。セリウス殿、何か頂くことはできますか」
「もちろんです。このままこちらで少々お待ちくださいね」
笑いを堪えながらセリウスが退出する。お屋敷でどんな無礼を働くか、と心配する母の声音が蘇った。
そういえば、とフィルは顔を上げた。
「先生は、大鷲に乗ったことがあったんですか?」
「はい。風領にきた時に教えていただきました。久しぶりでしたがうまく飛べてよかったです。あの白迅は良い鷲でしたし」
「あの、先生が着陸すごく上手でびっくりしました。セリウス様は降りてから鷲がちょっとよろけてたんですが、先生の鷲はぴったり止まって」
「セリウス殿は二人乗りでしたからね。普段と重さや重心が異なりますから、勝手が違ったのでしょう。――フィル、大鷲はどうでしたか?」
「すごかったです!」
思わず大声を出して、慌てて口を押さえた。
「えっと、風が。風の領が、すごく広くて、綺麗で、ええと」
エルンがにこりと笑う。
「良い経験でしたね。今感じたことを、どうぞ大事にしてください。今は無理に言葉にする必要はありません。ただ、言語化することで印象がはっきりしたり、他者と共有しやすくなるのは確かですので、ゆっくり消化してからまた教えてください」
「言語化……」
フィルの感じた風を、大鷲の体温を、羽ばたきをみんなに伝えることはできるだろうか。自分たちの暮らす世界があんなに広いこと、その広い世界を通り抜けると同時に満たしている風のことを、どう説明すれば良いのだろうか。
そこで、扉を叩く音がした。
「入室してもよろしいでしょうか」
エルンが扉を開けると、その向こうには村ではちょっとお目にかかれないような上品な顔立ちの少女が、パンの入ったカゴを持って立っていた。
歳はフィルと同じか、少し上くらいだろうか。少女は軽く会釈して、部屋の中央に歩いてくる。そして高価そうな絨毯の上にためらいなくカゴを置いた。
「……」
続いて茶器を、流石にこちらは下に布を一枚敷いてからだが、その上にどんどん置いていく。
正直フィルは怖気付いた。とてもこの絨毯にパン屑なんて落とせないし、万一お茶でもこぼした日にはどれだけ働いたら返せるのだろう。何かの罠だろうか、と硬直しながら少女の動作を見ていると、視線に気付いたのか少女がフィルを振り返った。
フィルを見つめる、透き通るような銀の眼差し。それは敵意というには静かで、興味というには冷たかった。
似たような眼差しを知っている。目の前に並んだ髪飾りを、なけなしの小遣いを握り締めじっくりと品定めする目だ。この飾りの色合いは自分の髪色を際立たせるか、瞳の色によく映えるか。髪留めの細工は使いやすいか、簡単に壊れたりはしないか。商人の出した品物を、値踏みする目だ。
フィルはいつも商品を値踏みする客の反応こそを見定める側だが、その対象が自分だと思うとなんとなく面白くはなかった。
とはいっても、この少女だけでなく、セリウスとてフィルの家に来たその瞬間からフィルを値踏みしていたはずだ。それをフィルに気取られる、彼女の経験が足りないだけで。
「こちらを頂いてよろしいのですか?」
エルンの柔らかな声に、フィルと、少女もハッとしてエルンを見る。少女は立ち上がってエルンに向き直った。
「はい。何か足りないものやご不便があればお申し付けください。領主様はじきにお見えになりますが、どうぞ気にせず召し上がっていただくようにと言いつかっております」
「承知しました。フィル、いただきましょう。まずは腹ごしらえです」
「え、あ、はい」
戸惑いはあったが、空腹には勝てずにフィルはパンの入ったカゴの前に座る。領主様が来るというなら、その前でまた腹がなったら気まずいなんてもんじゃない。
白いパンを一口頬張る。
「……」
良く噛んで、飲み込んでから口を開いた。
「……エルン先生」
「なんでしょう」
「このパン、高級品なんでしょうか」
「その視点も間違ってはいませんが」
「何もつけてないのになんだか甘い感じがします」
「そうですね、おいしいです。土の領の小麦と、あとパンだねを発酵させるんだそうですよ」
「土の領ではいつもこんなおいしいの食べてるんでしょうか……あ、すみません」
フィルは壁際に控えて、呆気に取られた顔でフィルたちを見ていた少女を振り返る。
「このパンって売ってますか?」
「え?」
「すごくおいしいので、売ってるなら買って帰りたいです」
「……このパンは館の料理人が焼いたものだと思いますが」
「料理人」
そうか、こういうお館には料理をするお仕事の人もいるのか。
手に持ったふかふかのパンを見つめていると、トントンと肩を叩かれた。振り返ると、エルンの肩越しにセリウスと、それから立派な装束の男性が笑いを堪えるような顔でこちらを見ていた。
「……」
変な声が出なかったのは幸いだった。慌てて立ち上がりながら男性に向き合おうとして、手に持った食べかけのパンの処遇に迷う。
カゴに戻す……行儀が悪いし所作がモタモタする。
手に持ったまま挨拶をする……礼儀作法的にありかなしかわからない。いや、たぶんない。
一口で口に入れる……問題外。
結果としてパンを両手で持ったまま固まるという、ある意味最悪の状態に陥っている。お館でどんな見苦しいことになるか、とセリウスに訴える母の声が再び聞こえてきた。
そうだ、セリウスは……と視線を向けたら、声こそ出さないように堪えていたが、普通に笑っていた。とりあえず助けてくれる気がないことだけは伝わった。この野郎、と思ったところにため息が聞こえた。
「こちらへ」
呆れ混じりの声とともに、少女がフィルの目の前に布巾を差し出していた。食べかけのパンをそっと乗せると布巾でくるりと巻いて、他のパンや茶器とともに片付けていく。
最後、ちらりとフィルに一瞥を投げてから、彼女は荷物を抱えてなおも優雅に男性に向かって一礼をした。
「それでは一度下がらせていただきます。またご用命があればお呼びくださいませ」
「ああ、ありがとう。給仕のような真似をさせてすまないな」
「ご必要とあらば否やはございません」
男性に対する彼女の優雅で丁寧な所作に、フィルはどことなく含みというかトゲを感じた気がした。やっぱり貴族のお嬢様なんだろうか。平民の自分に思うところでもあるんだろうか、とちょっと考えたところで、彼女の抱えるカゴの中のフィルの食べかけのパンの包みが目に入る。
「……」
フィルはそっと目をそらした。
「さて」
少女が部屋を出ていったところでかけられた声に、フィルはハッと正面を向いた。
「遠路はるばるご苦労。急な呼び出しに応えてもらって感謝する。――ヴァレリス=アルカだ」
やっぱり、と思いながらフィルは頭を下げた。フィルでも聞き覚えのある、それは風領の領主様の名前だった。




