大鷲の飛翔、風領の空
「行け!」
ドルフの声とともに、右側に伸びるスズナリの帯が大きく揺れ、シャラシャラと葉擦れの音が鳴った。風に乗ってその音が向かってくる、そこにめがけて鷲が飛んだ――いや、落ちた。
驚愕は悲鳴にもならなかった。周囲を流れ去る空気の勢いがすごくて、呼吸さえ思う通りにならない。息だけしてろと言われた意味を、フィルは身を持って理解した。
すっと後ろから頭を押さえられる。ハッと気づいて頭を鞍に埋めるように伏せた。同時に、落ちる感覚が止まる。続いて内臓がひっくり返るような感覚。
ふと、昔スズナリから飛び降りた時を思い出した。あの時も地面がぐんぐん近づいたと思ったら、いきなり目の前が回転した。そして一瞬だけ体が浮き上がった後、そのまま校庭に尻餅をついた。居合わせたエルンが、風の魔術で地面と激突する寸前のフィルの体を支えたのだと、後から知った。
でも今は――
(……飛んでる)
フィルを乗せた大鷲が風に乗って上昇している。昇りかけの太陽がフィルの目を焼いた。目がくらんだ次の瞬間、視界に入ったのは、どこまでも広がる一面の青。
ぽかんと口を開けていると、不意に下向きに引っ張られた。今度は鷲がぐんぐんと下降していく。離陸場の真下のスズナリを撫でるように揺らし、スズナリの葉の音とともに鷲は再び上昇した。
瞬きもできないフィルの眼前に、セリウスが手をかざした。不意に顔の周りを流れる風が緩やかになった。フィルは大きく息を吸い込む。膨らむ肺に、そこでようやく呼吸が足りていなかったことに気がついた。
肩で息をしていると、もう一度、すみません、と謝られた。
「鷲の乗り手は、みんな魔力で体の周りに空気の層を作りながら飛ぶんです。急な高低差で息が詰まらないように、あと保温や皮膚の保護にもなるので」
「こう、ですか?」
意識して、今身の周りにある空気を留めるように魔力を操作する。ほう、とセリウスが感心したような声を出した。
「そうです。なかなか上手いですが……今は私がやるので大丈夫ですよ」
「でも」
「私の方が慣れているし魔力量も多い。ここで無理な魔力操作で疲れると、館についてからが大変でしょう」
セリウスのいう通りだ。けれど、鷲に乗って飛ぶ、ということをもう少し体験してみたいのに。
ふふ、と面白がるような声がした。
「鷲に初めて乗る子供は、みんな同じことをしようとするんですよね。……まあ、ドルフ先生なんかは、落ちない限り好きなようにやらせとけなんて言ってましたが」
でも、とセリウスは続ける。
「せっかくなので、フィルさんはもっと景色を見るといい」
そうセリウスが言うと同時、鷲が真横に体勢を傾ける。
鞍の取っ手を握り締め、必死でしがみつく。と、今度は反対側に向きが変わった。体が右側に引っ張られる。いや、下にずり落ちているのか。天地の方向すらもつかめず、フィルはひたすら全身に力を入れる。
「いきなり、何を――!」
衝撃のあまり相手の身分への遠慮も何もなく声を荒げかけて、不意に止まった。
――広い。
先ほどより幾分高くなった朝日が、風領の岩山を、そこから続く草原を、街道とそこに植えられたスズナリの並木を、目覚め始めた集落の屋根屋根を照らし出す。
風が吹いている。
フィルの周りの風は魔力で遮られているのに、大鷲が乗る風の流れが見えた。いや、実際に風が見えているわけではない。でもそこに吹く風が、大鷲も風の魔力も日の光も、耳元でぴゅうぴゅう鳴る音も、少し湿った早朝の匂いも、全てを混ぜこぜに溶かして運んでいく、そんな気配がした。
「見えましたか?」
「…………」
なにが、ともなにを、とも言わない。フィルもそれをなんと言ったらいいかわからない。
ただ、それこそが風だとフィルは感じた。
「やっぱり筋がいい」
「そう、でしょうか……」
呆然と呟いたフィルに、そうですよ、とセリウスが答える。
「フィルさん、覚えておいてくださいね。今のがあなたの故郷です」
故郷、とフィルが繰り返す。フィルにとっての故郷はカルデン村だ。ルッカの銀の毛並みが揺れ、岩山に背後を預け草原を見下ろすフィルの故郷。さらにいうならその中の、ルッカの小屋と作業場が隣接したフィルの家。両親、叔父、兄弟たちがフィルを待つ場所。そこは改めて意識するまでもない、フィルの帰る場所だ。
けれど。
「……風の領って、広いんですね」
「ええ」
フィルの故郷に吹く風は、風の領全体に満ちているのだ。いや、ひょっとしたらその外にだって。
エルンの乗る大鷲が見えた。真っ直ぐに、たぶんフィルの乗る鷲とは違う風の流れに乗って、悠々と空を駆けている。エルンが一瞬こちらを見たような気がした。いつものように、穏やかな笑みを浮かべているのだろうか。
朝日が照らす風領の大地に川が流れ、人々の暮らす家からは朝の炊事の煙が立ち上っている。その上を大鷲を乗せた風が流れていく。
それは、フィルが初めて意識した「世界」の光景だった。




