魔力風穴
魔力風穴、と誰かが呆然とつぶやいた。
「……先生」
エルンに呼びかけるフィルの声は震えていた。ことさらに、声を潜めて尋ねる。
「魔力風穴って大災害の前兆なんじゃ」
ぽん、と背に手が置かれる。
「そういう見方もありますが、魔力風穴が即座に大災害につながるわけではありません」
エルンの言葉の内容より、背中に置かれた手の温度に安堵を覚える。
そのフィルの様子にエルンは軽く微笑むと、手を離して一歩進み出た。
「失礼、ロクサーネ殿とおっしゃいましたか。いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか」
いつも通りの落ち着いた声音に、ロクサーネが顔をしかめて勢いよく振り返る。しかし、声の主のエルンを――天氏族が立っているのを見ると、表情を改め礼をとった。
「急場につき、挨拶は省略させていただきます。水領との境における魔力変動の観測の任についております、ロクサーネと申します。天のお方、申し上げた通り、ただいま魔力風穴が発生しておりますが、この状況におけるお尋ねとはなんでしょう」
ロクサーネの切り口上に、エルンもまた前置きを省いて答えた。
「エルン=メナ=ルミナエルと申します。風切峠であれば、主要な道や人家からは離れていると考えて良いでしょうか。避難の手配はどのように?」
エルンの問いに、ロクサーネが真っ直ぐにエルンを見た。
「発生場所から一番近くの人家は峠の観測所です。観測官のうち、魔力の少ない者から避難を始めています」
「風穴の段階は」
「私が大鷲でこちらに向かったとき、周囲の魔力吸収が始まったと知らせがありました。問題の風穴ですが、兆候が発見されたのは明け方です。通常の手筈に則って封鎖を試みていたのですが、沈静化したと思われた風穴が、昼を過ぎたところで再拡大しました。観測所勤務の天氏族が現在封鎖を試みておりますが、急ぎ領主にお知らせするようにとのことで、私が参りました」
「なるほど。……どうされますか?」
最後の声は、セリウスに向けたものだった。セリウスが、ふう、と息をつく。
「レグルさん、神殿都市に向かわれてるヴァレリス様に大鷲で使いを出す。平地に降りるのが得意な大鷲を頼む。……それから、いま飛べるすべての大鷲の準備を、同時に進めてくれ」
そしてファビアンに向き合った。
「会議室を準備させますので、先に向かっていただけますか。館に残っている重臣を集めます」
「わかった。……大叔母上、ご足労願えますか?」
「統承一位殿。私は今、観測所の使者としてここにいます。儀礼は不要、ロクサーネと呼び捨てになさい。セイレア殿もですよ」
「承知しました。……エルン師、立ち会いをお願いしてもよろしいでしょうか」
セイレアの呼びかけに、エルンが一つうなずいた。
◇◇◇
慌ただしく緊迫した気配の中、領主館に残っていた重臣たちが集められた。
その顔を見渡して、ファビアンが言った。
「皆、聞いての通りだ。ロクサーネの知らせによると、水領との境である風切峠付近に魔力風穴が開いた。昼の段階で魔力吸収型、拡大傾向にあるということだ。現在は観測所勤務の天の方が対処されているとのこと」
「……拡大しつつ、あるのですか?」
尋ねたのはヴァレリスよりも年嵩の留守居役だ。額にうっすら汗をかいている。ロクサーネが答えた。
「明け方に一度閉じたと思われたのですが、再拡大は急でした。天の方……ネイト師は、風の領主による対処を要請する、と」
流れのままエルンについてきて、目立たないように部屋の隅にいたフィルであるが、そろそろ話についていけなくなっていた。
ただ、非常に緊迫した事態であること、ヴァレリスの不在が非常に時機が悪かったことはわかった。フィルの斜め前に座っているアウローラの顔色が、先ほどからどんどん悪くなっていることも。
声をかけるべきか迷っていると、場にそぐわない朗らかな声がした。
「では、私が代わりに行くということでよろしいですか?」
ファビアンの発言に、アウローラの肩がびくりと揺れる。一拍おいて、場にざわめきが走った。
確かに順番ではあるが……。しかし今の状況では……。
ウィルフォード様があの状態で、お子もないのに……。
困惑の空気を断ち切るように、セイレアの手元の扇子が、パチン、と大きな音を立てた。
「ファビアン、ふざけたことを言っている場合ですか」
「なにもふざけていません。私は父に留守を任されました。領主の代理とはそういうことでしょう」
「この状況で統承一位に魔力風穴の対処をさせることが可能だと思うなら、もう一度座学と事例集をやり直してらっしゃい。……行くなら私です」
一瞬の沈黙の後に、先ほどよりも大きなざわめきが走る。ロクサーネがため息をついて言った。
「セイレア殿。失礼だけど、あなた、大鷲に乗れるの?」
「レグルになんとか飛ばしてもらいます。この館には二人乗りのできる鷲だっていますもの。多少重量があってもなんとかしてくれるでしょう」
「セイレア様……!」
悲鳴のような声をアウローラがあげた。立ち上がろうとしてよろけた彼女を、フィルは慌てて支える。
セイレアがこちらを見てふと笑った。
「アウローラ殿、後のことは任せます」
「私には、まだ無理です!」
アウローラの声に、セイレアがうなずく。
「そりゃそうですとも。年季が違いますからね。でも、私が奥向きでやってきたのは、人がなんとかできることばかりです。他の人でも……あなただって、いずれはできるようになること」
いったん言葉を切ってから、セイレアは「ですが」と続けた。
「魔力風穴の対処は領主の役目です。ヴァレリス殿が不在であれば、領主の傍系で妻たる私が赴くのが当然でしょう」
ぎゅっとアウローラが唇を噛み締める。
「では、準備をいたしますか」
そう言ったのはセリウスだ。
「……申し訳ないけどセリウス、あなたこそ大鷲は苦手なんじゃなかったの?」
「この日のために大鷲に挨拶回りを欠かさず、賄賂も渡してきたんですよ。賢い鷲たちならなんとかしてくれるでしょう」
はあ、とセイレアがため息をついた。
「残れと言ったら聞くのかしら」
「私に命令できるのはヴァレリス様だけですし、あの方がセイレア様を一人で送り出すわけがありません」
二人の会話にロクサーネが肩をすくめる。
「途中で落ちないでちょうだいね、二人とも。落ちたら置いていくから」
「……ロクサーネ様」
「私が行かないわけないでしょう。血筋でいうならあなたは傍系で私は直系。夫も天上で待ってるでしょうし」
軽い調子のやり取りに、フィルは息を飲む。
夫が天上で待ってるって、そんな、これからセイレアたちが向かう先が、まるで天上であるかのような。
「……先生」
風領の人間のやりとりを黙って見ていたエルンの袖を、フィルはつかむ。
「魔力風穴の対処って、どういうことなんです……?」
「あなたが思ったように、魔力風穴は大災害の時に頻発した現象です。地の魔力が乱れ、魔力の勾配に従って魔力が一地点に流れ込む現象――それが魔力風穴です。原因が魔力の勾配、すなわち環境に魔力の多寡が発生しているわけですから、その対処としては魔力の少ないところに魔力を補充する、もしくは魔力が溜まっているところから魔力を抜くのが基本となります」
淀みないエルンの説明に、魔力熱みたいだ、とフィルは思う。
「それなら、ちゃんと対処すれば収まるんですか?」
「ええ、正しく対処すれば」
安堵しかけたフィルの脳裏にヴァレリスの声が蘇った。
――彼らは真実しか口にしない。だが、あえて言わぬこともあるし、それによってこちらを煙に巻くこともある。そして、こちらの都合のいい誤解を正してくれるほど、親切でもない。
「……正しく対処、し損ねたら?」
恐る恐る口にした。
エルンはいつも通りの平静な様子で答えた。
「風穴に魔力を全て吸い取られる、もしくは風穴から溢れた魔力を全て受ける可能性があります」




