修羅場
翌日、まずは急な予定変更の詫びをしに、フィルはヒルデガルドのもとへ向かった。
ウィルフォードが「熱を出した」昨日は、セイレアとアウローラが白鷺館でお茶会を開いたらしい。考えてみれば、次期領主の母とその妻、そして弟の妻という形になるのだから、こちらも交流を深めるのはおかしくない、というより必須と言ってもいい。
……もし、本当にそんな未来が来たのだとすれば、きっと賑やかだったろうな。
お茶会でのやりとりを説明するアウローラの、輝かんばかりに迫力ある笑顔を思い出した。
でも、その未来にきっとフィルは不在だ。そのことが寂しいような、けれどウィルフォード本人のことを思えばそんな感想すらおこがましいような気がして、胸中は複雑だった。
「お待たせしてごめんなさいね」
ヒルデガルドの声に、ハッとフィルは顔を上げる。
「とんでもないです。こちらこそ、何度も予定を変更して申し訳ありません」
「体のことが第一だもの。……もう、熱は下がったの?」
「はい。ご心配をおかけしました」
頭を下げれば、ヒルデガルドが心配そうに、フィルの頬に右手を当ててきた。相変わらず距離が近い。……別に、嫌ではないのだけれど。
その手が、すっと頭に触れた。左の額のあたりを、優しく撫でられる。
「……これは、本物みたいね」
フィルの銀髪に混ざった青い髪。どくりと心臓が跳ねた。
勢いよく頭を上げそうになったのを必死に堪える。努めてゆっくりと、顔を上げた。
「ヒルデ?」
とぼけるように首を傾げてみせれば、相対するヒルデガルドも鏡に映したようにゆっくりと首を傾げた。
「レイネシア様もあまりお加減が良くないということで、昨日もいらっしゃらなかったのだけど」
「そうですね、母も、先日の宴も中座せざるを得なくて、大変失礼いたしました」
不自然に途切れないように、言葉を続ける。レイネシアと「ウィル」の健康状態の不安については強調していいはずだ。と、にこりとヒルデガルドが笑みを浮かべた。
「ねえウィル、あなた、お母様を『レイネシア様』って呼ぶの?」
思わず目を見開いた。いつやらかした、と記憶を探ろうとして、それこそが致命的だったと気付いたのは、視界がぐるりと回って天井が目に入ってからだった。
間違いに気づいたとして、慌ててはいけないとセイレアからも言われていたのに――。
「あなたは誰」
間近で、朝日のような瞳がきらめいている。背中から伝わる床のひんやりした感覚より、首にかかったヒルデガルドの手の熱さより、まずそんなことを思った。足を払ったその勢いのままフィルにのしかかったヒルデガルドが、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「たくさん手紙をくれたのは?」
「岩場や街で、ルッカのことを教えてくれてたのは?」
「泥ガニ退治に連れて行ってくれたのは?」
「ショールを送ると言ってくれたのは? 髪の色と見立ててくれたのは?」
首にかかるヒルデガルドの手に、本能的な恐怖を覚える。どうすれば、この人の怒りを爆発させずに済むのか。
「ねえ、本物のウィルはどこ?」
一瞬揺らいだ朝日に、フィルはヒルデガルドの一番心配していて、知りたいと思っていることを悟る。
「ウィルフォード様は、ご無事です!」
「……」
ヒルデガルドは微動だにしないが、首にかかる手の力がかすかに弱まった気がした。
「……ご無事です。ヒルデ……ガルド様がいらっしゃる前にも、私、ウィルフォード様と直接お会いしてお話しました。魔力熱の後遺症みたいなのがあるのは本当ですけど、ちゃんとご無事でいらっしゃいます」
「……それではなぜ、あなたがウィルフォードの影武者のようなことをしているの?」
「……」
正直に答えていいものか、この期に及んで迷った。風領の機密であることはもちろんだけど、同時にそれはウィルフォードの秘密だ。それを知られたら、縁談はもちろん、彼の立場も風領の統承も危うくする秘密――。
もう一度、手にかかる力が強まった。なんだか体温だけでない熱さも感じる気がする。熱気に追われてわらわらと湧いて出た泥ガニが脳裏をよぎった。
え、死ぬ?
危機感と焦りで混乱するフィルの上に、ぽつりとヒルデガルドのつぶやきが落ちた。
「……私を騙したことを、怒っているけど」
手のひらの熱さとは裏腹の、静かな声だった。
「あなたが、ウィルと私の障害になるというなら、許さないけど」
すっと瞳が細められる。出会った時からずっと、フィルのことをまっすぐに見つめてきた、その瞳。
「でも、私は『あなた』のことも、結構好きなの」
――私、ヒルデのことが結構好きなんです。
そんな風にエルンに語ったのは、つい昨日の朝のことだ。
「あなたの名前は?」
出会ったときのように真っ直ぐに見下ろされ、フィルはおずおずと口を開いた。




