領主館への帰還
イルゼと赤ん坊はひとまず大丈夫であるとドーラの太鼓判が押され、フィルは早々に領主館に戻ることにした。
「夜はあまり大鷲の飛行に向きませんからね。……とは言っても、日中にあちらに乗り付けるのも人目が心配ですし。夕方頃に戻りましょう」
エルンの提案にフィルはうなずく。しかし今、夜は大鷲の飛行に向かないとさらっと言ったが、普通に飛んできて自分を乗せて帰ってきたよなこの人……とフィルは思った。
セリウスのような考えはもちろんわかる。周囲に自分たちが敵わない力を持った人間が紛れている、というのは単純にぞっとしない。
ただ、フィルにとってエルンは、そしてメリアのような「神官様」は、天氏族という前に、学校の先生であり神殿のおばあちゃんであった。彼らの力が使いようによっては危険なものだ、と言われたところで、結局のところ「でもエルン先生だし」に思考は落ち着く。
――それこそがトゥーレ神殿のやり口だ、ということなのかもしれないが、そのやり口で神殿の目指しているものが「世界の調和」であることを、フィルもみんなも知っている。「調和」に対して真摯な彼らを、危険だとはやっぱり思えなかった。
イルゼと赤ん坊に別れを告げる。シュルクが何やら口をすべらせたらしく、カイルが疑わしげにフィルを見てきた。久しぶりに帰ってきた下の姉にまとわりつくセイラとリィヤをそのカイルに押し付け、父母に見送られてフィルは再びグラスリーの鷲台から領主館へと向かった。
エルンは相変わらず風読み達が感嘆するように鷲を飛ばす。領主館で蒼風から白迅に乗り換えるエルンに、フィルは礼を言った。
「これも私の役目ですからね」
エルンはいつも通りなんでもない顔でそう言った。けれどそのあと、ふと眉を寄せる。
「私が優先するのは、全体の調和であり、そしてあなたの教師、保護者としての役目です。……ただそれは、風領の領主方に対する不義理の免罪ではありません。ですのでひとつ、伝言をお願いします」
エルンの改まった様子に、フィルは姿勢を正した。
「仮に、あなたのことが露見して……いえ、今回をやり過ごした後でも、火領がこの件で風領に抗議してきた場合、天氏族のエルン=メナ=ルミナエルが、少なくとも風領の方々は天の調和を乱さないための行動を取っていたと証言します、と」
「……」
ちょっと抽象的すぎてフィルにはよくわからなかった。風領に悪気があったわけではない、みたいな雰囲気は感じ取ったが。
「えーと、天の方の言葉が私にはよくわからないので、領主様に一言一句そのまま伝えればよろしいでしょうか」
「そうですね、領主殿には伝わると思います」
そう言うといつもの微笑みを残して、エルンは薄闇の中を白迅を駆って飛んでいった。
きた時と同じ道から館に入ると、シュナが目立たないように身を潜めて待っていた。フィルの顔を見てにこりと笑う。
「万事、つつがなく?」
その笑顔にホッとしながらうなずいた。
「よかったです。……お帰りなさい」
シュナに、おそらく使用人達が主に使うのだろう目立たない暗い道を案内され、雲雀館に戻る。顔を隠すように巻いたショールを外してホッとした。部屋にはアウローラ、セイレア、セリウスが待っていた。
「フィル、お姉様とお子さんは?」
開口一番にアウローラが尋ねてくる。フィルは笑顔でうなずいた。
「今朝の明け方に生まれました。母子ともに、ひとまずは問題ないそうです」
アウローラもホッとした顔になった。セイレアが気遣わしげに尋ねてくる。
「お子さんが、火の属性混じりかも、とのことでしたが……」
「それもまだ、生まれたばかりではっきりはしないそうですが、神殿の助産師さんがしばらくは神殿で様子を見るかもと。エルン先生は、その助産師さんは経験豊富だから安心ですよって」
そこでフィルはセリウスに向き合った。
「えーと、エルン先生から領主様に伝言です。『仮に今回のことが露見して、火領がこの件で風領に抗議してきた場合、天氏族のエルン=メナ=ルミナエルが、少なくとも風領の方々は天の調和を乱さないための行動を取っていたと証言します』だそうです」
「……」
セリウスが見るからにげっそりとした顔になった。ふと隣を見れば、シュナとアウローラは目を見開いているし、セイレアも笑顔のまま固まっている。
「なんかまずかったですか」
「えーとフィルさん。本来、天のお方のお言葉というものは、そんなふうに伝言でホイホイ渡すものではないです」
「はあ」
「天のお方が、その名にかけてした発言というのは、彼らにとって決して覆すことのない誓約と同義です」
「……元々、先生達って嘘はつかないものだと思っていました」
「そりゃそうですけど!」
「セリウス、落ちつきなさい」
セイレアがフィルに向き直る。
「フィルさん、ちなみに預かった伝言というのはそれで全部ですか?」
フィルは記憶を探る。余計な言葉や解釈を織り混ぜずに、一言一句。
「えーと、あなたのことが露見して、または今回のことをやり過ごしたとして、火領がこの件で風領に抗議してきた場合、とおっしゃってました」
「そう……」
セイレアも黙ってしまったので、フィルは助けを求めるようにアウローラを見る。アウローラはフィルの視線に、酢でも飲んだかのような顔をした。
「天のお方について、私が語ることを許されている範囲というのは広くありません。ただ――」
そこで言葉を切って、未だ考え込むセイレアとセリウスを見てから、アウローラは一つため息をついた。
「天のお方には、名が三つあります。一つは個人、一つは来歴、一つはその役目を示すと。ですので、その名を出して為された約束というのは、天のお方が負った役目と、その生まれと、その方自身がかけた約束ということで、大変重いとされています。……エルン師はあなたの学校の先生ということですが、普段からその三つの名において何かを約されたりはしないでしょう?」
「……そうですね」
彼はいつも、ただエルンとのみ名乗る。フィルがエルンの後ろの名を聞いたのは、それこそフィルが領主館に行くことになって、エルンがフィルの両親にフィルの身の安全を請け負った、その時が初めてだ。
「……これは、エルン師が火領とのやりとりにおいて、我々の後ろ盾になってくださると見ていいんでしょうか……?」
セリウスがつぶやくのに、セイレアが首を横に振った。
「あの方々の言葉に裏を求めても意味はありません。純粋に、ウィルフォード殿の身代わりを立てたのは芯から火領との間で波風を立てないためで、我々なりに最善を探した末のことだった、と証言してくれるというだけですよ」
「……私がいうのもなんですが、それって意味があるんですか?」
フィルは恐る恐る尋ねた。セリウスがため息をつきながら答えてくれる。
「意味はあります。少なくとも、ウィルフォード様の状況を正直に伝えなかったこと、身代わりを立ててヒルデガルド様を騙したことについて火領が抗議してきても、それ以上にこちらの粗を探したり風領の統治そのものに口を挟んだりはさせない、ということですね」
「えーと」
「約束した商品が期日までに準備できなかった、それを言いくるめようとしたことが顧客にバレた、それに対する弁償は求められても、実は商品はあるのに隠してるだろうと家探しをしようとしたり他にもやらかしているはずだから関係のないところまで帳簿を見せろと言ってきたら、この店はそんなことはしていないですよ、とエルン師がなだめてくださるということです」
「……」
「まあ最低限、火の領主様が乗り込んでくるような事態は防いでもらえるんじゃないでしょうか」
いや、娘の婚約者に身代わり立てられたら母親が怒鳴り込んでくるのはありうる線なんじゃなかろうか。
と考えたところで、その身代わりが自分で母親が火領の傑物領主なのだと思い出してフィルは黙った。
先生にはぜひ、そんな事態を防いでもらいたい。




