夜明けの出産
フィルの初めての甥っ子が産声を上げたのは、翌日の日の出頃だった。夜半に到着して、そのままイルゼに付いて手伝いをしていたらしいカイルとシュルクは、赤ん坊の顔を見るなり眠りについた。
産まれた赤ん坊はしわくちゃでやっぱりちょっと小さかったが、元気な声で泣いていた。目の色はまだよくわからないが、うっすらと頭皮を覆う髪は銀というよりは赤っぽく見えた。
イルゼは昨日に増してぐったりしていたが、ふとフィルを見あげて「……あんた、ずいぶん髪がきれいね」と言った。今度アウローラに教わった手入れを教えてあげよう、とフィルは思った。
夜のうちにカイルたちと交代して休ませてもらっていたフィルは、神殿の調理室を借りて朝食の準備をする。イルゼが食べられそうなら温めた乳を出してあげなさいとメリアが言っていた。あとは具沢山の汁物を作る。他の家族も起きたら食べられるしちょうどいい。
「お疲れ様でした、フィル」
「エルン先生」
「安産だったそうで、良かったですね」
「……安産なんですか、あれ」
フィルが呆然と聞き返すと、エルンが困ったような顔をする。
夜半過ぎから陣痛の間隔が短くなり、痛みも増してきたあとのイルゼは大声で叫んだり悲鳴をあげたりすごく苦しそうだった。
先に休ませてもらっていたフィルが起こされたのは産まれたときだったが、産室に駆けつけたフィルの目に映ったのは、しわくちゃの赤ん坊と、自分も泣きながら赤ん坊を抱くソールの腕に残った真っ赤な指の跡だった。陣痛が佳境に入ったイルゼが、痛みに堪えかねてソールの腕を渾身の力で握ったらしい。指を握らせると折れることがあるからね、とドーラは平然と言った。
「すみません、イルゼさんの大変さやご家族の心配を軽く見るわけではないのですが。ただ、無事にお子さんが産まれて、イルゼさんも意識がしっかりされているということでしたので」
「……そうですね」
結果を見れば安産には違いないのだろう。そもそも二月近く早いのに、無事に産まれてくれただけでも御の字と言える。
「迎えに来てくれて、ありがとうございました」
改めて、フィルはエルンに頭を下げる。エルンはにこりと笑った。
「仕事をするにあたって、あなたの安全と権利を守ると言ったでしょう。お姉さんの出産に立ち会うのは、あなたの正当な権利です」
「……ええと、こっそり聞きたいんですが」
「なんでしょう」
「赤ちゃんの髪、赤っぽく見えたんですけど、火属性なんでしょうか」
エルンは首を傾げる。
「見た目からはまだわかりません。元々、銀の髪色は髪が少ないと目立ちませんし、他の色味を帯びるとそちらが映りやすいです。髪の量が増えると、また印象が変わりますよ」
「……仮に、もし火属性だったとして、風領で姉さんと義兄さんが育てるのは大丈夫なんでしょうか」
しんどそうなレイネシアの様子が脳裏をよぎる。セイレアが「意地を張らずに帰ればいいのに」と言っていたのを、最初は夫人同士のいざこざかと身構えたが、レイネシアに懐郷病の兆候が出ているのを心配しての話だったのだろう。
大人で、おそらく魔力量も多いであろうレイネシアでも影響が出るのだ。生まれたばかりの赤ん坊ではいかほどなのだろうか。
「私はまだお子さんにお会いしていないので明言はできませんが……」
エルンの言葉にフィルは顔を上げる。
「ソールさんも火の影響が見えるとは言っても風属性ですし、お子さんに風の属性が全くない可能性は低いと思います。赤ん坊は体内で生み出す魔力も少ないですし、すぐに何か不調が起きるようなことはないと思います」
フィルは少し安心した。
「風領では属性混じりの出産は他領より多いですし、そういう意味でもドーラ師は頼りになります。色々な事例を経験されてますからね。ひょっとするとしばらく神殿で魔力状態含め、様子を見ることになるかもしれませんが」
「その方が安心かもですね」
フィルが笑って見せれば、エルンも微笑んだ。その顔に、ふと思い出す。
「あの、先生」
「なんでしょう」
「ヒルデが、周囲に影響を及ぼす規模の魔術を使うには申請や許可がいるって言ってたんですが」
エルンがうなずく。
「強い力には制限も必要ですからね」
「先生は、私がスズナリから落ちた時、風を呼びましたよね? 九歳の私が浮くくらいの風。……あれは、大丈夫だったんですか?」
ヒルデガルドからその話を聞いたときに、引っかかっていたことだ。エルンはちょっと考えるようにしてから、「そんなこともありましたね」と笑った。
「よかったんですか?」
「制度の話でいうならよくはないですね。落下中の九歳の子どもを浮かせることのできる風がいきなり吹けば、周囲も吹き飛ぶ可能性があります。ですが、あなたがあのまま落ちていたら大怪我をしていたでしょう。私はそれを防ぐためにできることをした、というだけです」
「……怒られませんでしたか?」
「学校の窓ガラスが割れましたので、弁償と始末書と、領主殿にもお詫びに伺いました」
「ガラスの弁償!?」
貴族の館か神殿くらいでしか使われない高級品の値段を思い浮かべ、フィルの背筋が寒くなった。
「だ、大丈夫だったんですか……?」
さっきより震えたフィルの声に、エルンが吹き出した。
「そうですね……あなたが、生を楽しんでくれれば、お釣りがくると思いますよ」
フィルは憤然として言った。
「そういう綺麗事でごまかさないでください。なんなら今回の報酬で返済します。……あの、分割でもいいでしょうか」
「おや」
エルンは瞬きをした。
「それではフィルは、木から落ちそうな子どもに弁償能力がなさそうであれば、見過ごせと?」
「……」
エルンが穏やかな表情を浮かべる。
「怪我をしそうな子どもがいて、私にそれを助ける力があって、まあお咎めなしとはいかないでしょうけど、それでもその力を使うと決めたのは私ですからね。力の行使に対する責任は、私が負うべきものです」
「……でも」
言い淀むフィルに、エルンがにこりと笑って見せた。
「考え方の問題ですよ。仮に目の前で子どもが大怪我をして、助けることができたのに、と後で悔やむ方が、私にとってはガラス代より重たいのです。……少なくともこの五年、あなたを助けたことを後悔したことはありません」
「……それが先生の、誠意ですか?」
ふむ、とエルンが視線を巡らせた。
「それは、言い得て妙ですね。私が自分の持つ力を正しく使うこと。天氏族として風領の民に負う責任。風領の学校の教師として生徒に対する役目。……そして、私自身がどういう人間でありたいか。全部ひっくるめて、自分自身に対する誠意と言えるかもしれません」
自分自身に対する誠意。
それは、自分がどういう自分でありたいか。そんな風に聞こえた。
火にかけた汁物がぐつぐつと音を出し始め、フィルは鍋をかき混ぜる。
「……とても今さらなんですが。私、たぶん周りにいる人達に、傷ついてほしくないんです」
「それはとても健全な気持ちだと思いますよ。天の教えにも適います」
「今までは、家族とか村の近所の友達とか、周りの人ってそういう相手だったんですけど。……そういう人たちのためにも、風領は平和であってほしいし。そうでなくても、ウィルフォード様とかローラにも、セイレア様にもシュナさんにも、傷ついてほしくないです」
「大事な人が増えるのはいいことだと思います」
「……あと、ヒルデにも」
出会ってたった数日だ。なのに、なんでこんなに彼女のことが気にかかるのだろう。
「……この一月、貴族のことや風領のことや、火領の話もいろいろ教わりました。ウィルフォード様から、ヒルデのことも教えてもらいました。身代わりがバレないようにしなきゃって緊張して、火領で狩師なんてやってるお姫様を怒らせたらやばいって、ちょっと怖かったくらいなのに」
――ウィルフォード?
初めてそう呼びかけてきたときの彼女は、お姫様なのに軽装で、綺麗な紅い宝石を溶かしたような色の髪を一つにすっきりと束ねて背に流し、朝日のような――一月前、フィルが初めて大鷲に乗ったときにフィルの目を焼いた太陽の光みたいな鮮烈な色の瞳で、フィルを射抜いた。
なんて綺麗な少女だろうと、見惚れたのは本当だ。
姿勢も良くて動作も颯爽としていて、とても綺麗でかっこいいのに、フィルが「ヒルデ」と呼んだときの笑顔はとてもかわいらしかった。
わかっている。彼女が笑顔を向けている相手は「ウィルフォード」であってフィルではない。それでも、彼女に笑顔を向けられて、フィルは間違いなく嬉しかったのだ。
「怖いのはそうなんですけど、私、ヒルデのことが結構好きなんです。怒らせたくないのはもちろんですけど……傷ついてほしくないなって、思って」
すっとエルンの手がフィルの頭に伸びた。うつむき加減の頭を、まるで九歳の子どもにするみたいにエルンが優しく撫でる。
「あなたはこの間、誠意とは何か、と尋ねたでしょう。……私に可能な助言としては、フィル。目の前にいる人を、きちんと見てください。その人が何を考え、何を感じているのか。それを無視しては、誠意も何もありません」
顔を上げたフィルに、エルンは優しく微笑んだ。
「あなたは多分、それができる人だと思います」




