神殿の出産所
領主館の鷲台には、フィルがここに来た時にもいた風読みが、一人だけで待っていた。なんとなくフィルはうつむき加減になる。
「エルン師、蒼風に二人乗りの鞍をつけました。……そちらは、失礼ながら、前より太ってはいらっしゃらないでしょうね?」
「……大丈夫です」
風読みってみんなこうなんだろうか。こうなんだろうな……と一度会ったきりのグラスリーの風読みを思い出す。
「こちらへ」
エルンに呼ばれ、フィルは前回を思い出しながら大鷲の鞍にまたがった。手探りで、体に巻かれた縄の先の鉤を探す。
「急に無理をお願いして申し訳ありませんでした。三日過ぎたら一度白迅を戻すように、とドルフさんから伝言です」
「承知しました。ドルフさんによろしくお伝えください」
大鷲もルッカみたいに、自分の鷲台まで戻ってくるんだろうか。不安でいっぱいのはずの頭に、ふとそんな思考が浮かぶ。と、背後にエルンの気配がした。鷲にまたがったのだろう。
「行きますよ。そのまま、合図するまで伏せていてください」
返事を返す代わりに微かに頭を動かした。一月前と同じ、少し埃くさい、生き物の匂い。不意に、胸が締め付けられるような気がした。ルッカの毛を刈った後の姉からも、同じような匂いがした。指摘すれば「あんたも同じ匂いがしてるけど?」とぎゅっと抱きしめられた――。
と、いきなり地面が抜けた感覚がフィルを襲った。落ちている。
え、今飛ぶ合図あった?
浮遊感と共に混乱するフィルの頭上をエルンが軽く押さえる。同時に、呼吸がすっと楽になった。前の時と同じだ。エルンがフィルの周囲に空気の層を作ってくれたのだろう。
「フィル、大丈夫ですか」
こくりとフィルはうなずいた。大鷲はもう水平飛行にうつっている。……なんというか、滑らかだ。
――鷲に関しては、落第スレスレでした。
なんとなくセリウスの言葉を思い出した。あの人、それでいきなり四十八キグの荷物を乗せて飛んだのか。そりゃドルフも渋い顔をする。蒼風に「いざという時はよろしく」と挨拶しているセリウスを想像してふとおかしくなった。
思い切って顔を上げる。今はもう夜だ。前とは違って風景はあまり見えない。ただ、建物の灯りがそこに町があることを知らせていた。目が慣れてくると、明るい月が丘陵や木々の陰影を浮かび上がらせているのがわかる。
「……満月ですね」
ぽつりとフィルはつぶやいた。
「きっと、天が見守ってくれているのでしょう」
エルンが答える。ふとフィルは思った。エルンたち神殿学校の教師は、「天は見ている」「調和が皆と共にある」そんな物言いはしても、天が人を助けるとは言わない。人は自らを助けるのだ、と。
未熟なうちは親や教師が手助けをするから、あなたたちもいつか、自分と周囲の人を助けられるようになってほしい、と。
鞍の取っ手を握る手に力をこめる。その理屈なら、天氏族であるエルンや神殿の助産師たちは、イルゼとその子を助けてくれるのだろう。彼らの持つ大きな力は天の代わりに、最も無力な状態である赤子とその母を、助けてくれるはずなのだから。
◇◇◇
グラスリーの鷲台ではドルフが一人で待ち構えていた。やはり着地も滑らかにやってのけたエルンに支えられ、フィルは鷲から降りる。ドルフはフィルをちらりと見たが、何も言わずにエルンに顔を向けた。
「白迅は」
「レグルさんが請け負ってくださいました。三日過ぎたら戻してくださるようにお願いしています。……この度は無茶を聞いていただき、ありがとうございました」
ドルフが顔の前で手を振る。
「あんたなら飛べるし、嬢ちゃん積んでも帰ってこられるってわかってただけだ。こっちも三日は蒼風を預かるが、それ以降はどうするか連絡よこしてくれ。……急ぎなんだろう、さっさと行きな」
最後にフィルに視線をよこして、ドルフが言った。フィルは無言で、ただ深く頭を下げた。
そこからは、エルンの馬で一気に駆け抜けた。途中でふと気づく。
「先生、姉さんの運ばれた神殿って……」
「街の神殿の方が、備えがたくさんあるので」
村ではなく、丘陵の麓の大きめの神殿だ。フィルの通う学校も隣接している。なるほど、こちらの方が天の医師も多いのだろう。そう思うと、再び不安が首をもたげてくる。
「エルン師、お帰りなさい……おや、フィルですか?」
馬を降りて出産所の近くに回ろうとすると、この神殿に長く勤めている老神官のメリアが顔を出した。
「帰ってこれたんですね、よかった。マーヤさんが、フィルは出稼ぎ先から戻れないかもと言っていたから」
「メリアばあちゃん、姉さんは?」
口早に尋ねると、メリアはいつものようににこにこと笑った。
「今はちょっと赤ん坊も休んでるみたいね。お産も止まってます。なに、叔母さんが来てくれたんだから、坊やもきっと挨拶しに出てきますよ」
「メリア師、おつかれ様です。今ご家族は?」
「今はイルゼさんにはマーヤさんがついてます。ベルンさんは、一度下の子たちの様子を見に行きました。お産自体はまだかかりそうですからね。下の子たちは今日は神殿に泊めましょう。フィルも落ち着いたら、今夜はそちらに泊まればいいわ」
「ありがとうございます!」
出産所の入口で、フィルは何やらスーッとする水を手にかけられた。
「よくそれで手をこすって、乾いたら一度着替えなさい。お産には外の気を持ち込まない方がいいから」
「はい」
「ではメリア師、私はこれで。フィル、私は学校の方にいますから」
「あ、エルン師、ちょっとここで待っていて。今ソールさんを呼んでくるから、連れていって何か食べさせてあげて。……朝からイルゼさんにつきっきりなのよ」
メリアがため息をつくのに、フィルは思わず笑ってしまった。イルゼを心配するソールを引き剥がすのは、大鷲にフィルを乗せてくるより大変かもしれない。
「エルン先生、ありがとうございました」
「いえ。イルゼさんと赤ん坊にお会いするのを楽しみにしています」
メリアの指示のままに着替えたフィルが産室に入ると、中では汗で額に髪を貼り付けたイルゼが横たわっていた。母はその手を握り、義兄は枕元で管の付いた容器を持っている。
「フィル!?」
母がフィルの名を呼ぶ声が抑えめで、イルゼが眠っていることに気づく。
「あんた、どうして」
「エルン先生が迎えに来てくれた。……向こうの人たちも、行ってきなさいって」
母がほっとした顔になったが、直後に不安げな様子を見せる。
「ドーラさんが、可能ならカイルとフィルを呼び戻すように、って……カイルはシュルクさんが迎えにいったのだけど、イルゼは大丈夫なのかしら」
メリアが母の背をそっとさすった。
「ドーラ師は熟達した助産師ですからね、安心なさい。坊やは少しせっかちみたいだけど、最初の挨拶には家族で迎えてもらった方が嬉しいでしょう。……ソールさん」
「はい!」
「その吸い飲みをフィルに渡して、一度食事をとってきなさい。いざ坊やが出てきたときに、お父さんが疲れて寝てたらがっかりしますよ」
「いえ、まだ僕は全然……!」
フィルは肩をすくめて吸い飲みとやらを受け取った。中には大きな茶葉のようなものが浮いた湯冷ましが入っている。
「フィル、イルゼさんが起きたら飲ませてあげて」
「わかりました。義兄さん、エルン先生が入口で待ってるから行ってきなよ。姉さんが起きたらすぐ呼ぶから」
「でも……」
「ソールさん、あんた朝からつきっきりだろう。イルゼが落ち着いてるうちに行っておいで」
義妹と義母に口々に言われ、ソールはしょぼんとした様子でメリアについていった。
「朝からずっとあんな感じ?」
フィルが苦笑すると母が肩をすくめた。
「いつも通りでしょう。破水したからドーラさんを呼んでっていったらすっ飛んでいくし、イルゼを神殿に運ぶ準備をするようにって言われたら荷車に布団敷いて準備するし、水とかうちわとかイルゼが欲しがる物はすぐ持ってくるし、まあオロオロしっぱなしだった父さんよりは役に立ってるね」
フィルはくすりと笑った。イルゼ大事なソールの通常営業だ。
「父さんなんて自分の子供が五人もいるのにね」
「妻が産むのと娘が産むんじゃまた違うんだろう。……まあ、同じお産はないしね」
ぽつりと言って、母は再びイルゼの手を握る。微かに魔力の流れを感じ、フィルは首を傾げた。
「母さん?何してるの?」
「ああ。赤ん坊が火混じりかもしれないってのは聞いたかい?」
フィルはうなずく。
「赤ん坊の火の魔力とイルゼの魔力がぶつかり合うことがあるんだってさ。イルゼの魔力が枯渇しすぎないように、血縁が魔力を周囲に流すようにって。まあ、気休めみたいなもんらしいけど。その水も、なんだか風の魔力が溶けてるらしいよ」
吸い飲みの中を見て、フィルはハッと気づいた。
――凪咲花の花びら?
口に出そうとして思いとどまる。魔力の扱いについては生半可に口にするべきではないと、アウローラに教えられてきた。後でエルンかメリアに尋ねてみようとフィルはそっと胸にしまう。
「……姉さん汗かいてるね。手拭いかなんかある?」
「そこにかけてるやつを使って。……ぬるそうだね、冷やしてきてくれる?」
「私が魔力を流す方をやるから、母さん手拭いをお願い。座りっぱなしみたいだし、ずっと魔力流してると疲れるでしょ?」
そう言って、フィルは反対側のイルゼの手を取った。
……熱い。
高熱という訳ではないが、ほてっているというか、運動の直後みたいな体温だ。
少し涼しくなりますように、とフィルはゆっくりとイルゼの周りに空気の流れを作る。
「風を吹かせるほどじゃなくていいってドーラさんは言ってたよ。長丁場になることもあるからって」
「うん、でも姉さんちょっと暑そうだから」
――この一月、魔力と属性について教えてきたはずです。
ここに来る前のアウローラの言葉を思い出す。魔力の扱いは、見えないものをどう動かすかの想像だ。見えないけれど、そこにある空気の存在を意識して、そこに魔力を通す。別に魔力が手のひら以外から出せないわけではないのだが、手で道具を持つように、手の先から魔力の流れを操るのが想像しやすい。
握った姉の手を始点に魔力を流す。体の周りからこもった熱気を軽く払う。母が濡らした手拭いで拭いた額の上に、首筋に、もう一度風をそよがせる。
「イルゼ?」
母の声にハッと姉の顔を見た。うっすらと、まぶたが開いている。
「フィル? あんたなんで……」
掠れた声に、慌てて吸い飲みを差し出した。イルゼは一口飲んで、ふう、と息をつく。
「お産が始まったからって、エルン先生が迎えにきてくれた」
「……よかったの?」
フィルはうなずく。セイレアがヴァレリスの許可をとったのだから、誰もそれ以上は言えないだろう。まあ報酬から日当分くらいは差し引かれても仕方ないが。
「……っ!」
不意にイルゼが顔を歪めた。
「イルゼ!?」
「……また痛くなってきた。……ソールは?」
「呼んでくる!」
立ち上がったフィルの背中に母が声をかけた。
「先にドーラさんかお医者様! 奥の部屋にいるから!」
◇◇◇
奥の部屋で助産師のドーラと、フィルは会ったことがなかったがグラスリーの神官医師だという人に声をかけ、フィルは隣の学校に向かう。
イルゼが目を覚ましたと言った途端、食事をしていたソールがすっ飛んで行こうとしてエルンに引き止められた。はやる気持ちはわかるが入室前の着替えや準備を疎かにしないようにと真剣に言われ、こちらも真剣な顔でこくこくと頷いていた。
「フィル、ベルンさんたちに声をかけてきます。ドーラ師は、まだ集まるようにとは言ってなかったですか?」
「えっと、わからないです。姉さんが目を覚まして痛がり出して、とりあえずドーラさんたちに声かけて、そのままこっちにきちゃって……」
エルンが苦笑した。
「気持ちはわかりますが、あなたももう少し落ち着いてください。あなたもベルンさんたちのところに行きますか?」
フィルはちょっと考えて首を振った。
「私もいったん姉さんのところに戻ります。父さんを呼んでくるように言われたら、また来ます」
「そうですね。……私はお産は専門外ですが、初産ですし、まだ半日でしょう。長引くことも考えて、あなたも適宜休憩を取るように。水分をちゃんととってくださいね」
「明け方からなのに、まだ半日、なんですか?」
いつも元気なイルゼがあんなにぐったりしていたのに。エルンは重々しくうなずいた。
「三日がかりなんてこともあると聞きます。新しい命の誕生というのは、本当に尊いと感じます」
「三日がかり」
なんだか怖くなってきたのだが。フィルの母は五回出産しているし、そういえばヒルデガルドも五人兄弟だったか。
……ヒルデ。
十歳で他領の婚約者が決められ、おそらく属性混じりの子を持つことがどちらの領からも求められている、十五歳の彼女。
イルゼだって、今あんなに大変そうなのに。
アウローラだってそうだ。次期領主の第一夫人となる彼女にとって、二、三人は子を産むことが、絶対の義務である。
ふと、三十年前に駆け落ちしたという、ヴァレリスの叔母の話を思い出した。彼女の行いは褒められたことではないし、多分火領にも風領にもものすごく迷惑をかけている。というか現在進行形で、フィルは彼女の行いの尻拭いに呼ばれているわけだが。
――領主になってしまったら、あなたとの結婚が遅くなるじゃない。
ヒルデガルドの言葉を思い出した。あれはフィルの思っているより、ヒルデガルドにとって――いや、領主一族の女性にとって、もっと切実な言葉なのではないだろうか。ヴァレリスの叔母は、どんな気持ちで駆け落ち相手の手を取ったのだろう。
「……フィル?」
エルンに名を呼ばれ、フィルはハッとした。
「やはり移動の疲れがあるのではないですか?次の連絡が来るまで、あなたも休んでいたらどうですか?」
フィルは首を横に振った。
「大丈夫です。――私が、姉さんのそばにいたいので」
笑顔を作って、フィルは再び出産所へと戻った。




