火領の婚約者
「ウィル」
野掛けの準備をして客館に向かえば、旅装を解いて……とはいっても十分に動きやすそうな格好のヒルデガルドに、笑顔で迎えられた。
「無理を言ってごめんなさいね。でもせっかくの機会だと思ったの」
「いえ、こちらこそ。ヒルデ姉様とご一緒できて嬉しいです」
笑顔で答えれば、ヒルデガルドがフィルの顔をのぞきこんでくる。きれいな顔が不意に近づいてきたことに心臓が跳ねるが、そのままじっと見つめられていると、今度はだんだん嫌な汗がにじんでくる。
「あの、姉様……?」
呼びかければ、ヒルデガルドはにこりと笑った。
「行きましょうか。ウィルが案内してくれると聞いたのだけど」
「はい」
何を考えているのかは今ひとつつかめないが、悪い印象を持たれているのではなさそうだ。フィルは後ろのシュナに軽く目配せをして、ヒルデガルドをルッカの小屋に案内した。
セリウスから指示された、領主館のある丘陵で景色が良く、なおかつ他領の者を連れて行っても問題のない場所までは、少々足場が悪い。道中はルッカについて話題にするのが無難と思いますというのがセリウスの助言だ。
――いいですか、ウィル様。あなたの物怖じしないところや機転が利くところは長所ですが、ヒルデガルド様に対する時は、いっそ気が利かないくらいの言動で大丈夫です。
――食事の準備などは、全てシュナに任せてしまいなさい。ヒルデガルド様を楽しませようなどと考えなくて大丈夫です。過度な失礼を働いたり、不意をつかれてうっかり失言しないように気をつけて。
早口でとうとうと捲し立てるセリウスに、普段何でもないような顔の下で、ものすごく色々考えたり手配している様子が窺い知れた気がした。
「足元が少々悪いのですが、ルッカに乗って行かれますか?」
「ええ、ぜひ」
火領から馬で来るぐらいだ。騎乗は得手だろうなと思ったが、やっぱりヒルデガルドは喜んでルッカ小屋にやってきた。
「念のためお尋ねしますが、お一人で?」
ヒルデガルドはにっこりと笑った。
「ウィルが相乗りしてくれるというなら喜んで」
フィルも笑顔を返す。
「今度は姉様をご案内できるよう練習をしておきますね」
元々ルッカは荷を引かせるならまだしも、騎乗にはあまり向かない。多分これくらいのことは言っても後々困るようなことにはならないだろう。
馬とは少し勝手の違うルッカを、ヒルデガルドは危なげなく乗りこなす。
「ルッカは移動手段にするだけでなく、毛の長い品種からはルッカ毛も取れるんです」
セリウスの助言に従ってルッカの話をしていると、ヒルデガルドがふふっと笑う。
「覚えてるわ」
ルッカの縦揺れを乗りこなすヒルデガルドに、覚えてるとは?とフィルはいぶかしむ。フィルの視線に気づいて、ヒルデガルドは微笑んだ。
「あなたは手紙で、上等なルッカの毛織物のショールを送ると約束してくれたのよ。覚えてる?」
「もちろんです」
反射的にフィルは答えた。これは覚えてませんと答えるわけにはいかないやつだ。しかし、以前ウィルから届いたヒルデガルドとのやり取りについての覚え書きに、そんな約束の記載があっただろうか。まさかウィルフォードこそ忘れてるのだろうか。内心冷や汗をかきながら、フィルはゆっくりと口を開いた。
「ルッカの高級織物は、風の魔力を含むので保温性が高いんです。暖かい空気を保たせることが多いですが、火領でお使いになるには涼しい空気を纏うものの方が便利でしょうか?」
「そんなこともできるの?」
「はい。風の季に風領山脈から吹き下ろす風は冷たくて、風の魔力をいっぱい含んでいますから。ルッカの毛刈りは暖かくなる水の季から火の季にかけて行いますが、保管しておいた毛を風の季に、山脈の風の通り道に干すんです。そうするとルッカ毛が風の魔力といっしょに冷たい空気を吸収するんですよ」
その毛で糸を撚って……と説明を続けようとしたフィルの背後で、ルッカのいななきが聞こえた。思わず振り返ると、シュナが乗ったルッカの首筋を叩いて宥めている。
「失礼いたしました、ルッカがつまずいたようで」
申し訳なさそうに言うシュナの視線が、一瞬フィルに目配せをよこす。フィルは意識して口をゆっくり閉じた。シュナが微笑む。
「大丈夫ですので、ご心配なく」
フィルはうなずくと、再びヒルデガルドに話しかけた。
「姉様は、やはり上手に乗りこなしていらっしゃいますね」
「そう?」
「こちらにも馬でいらっしゃいましたが、あれは火領の馬なんですか?」
「ええ。馬は風領にもいるでしょう? 馬は越境しても、比較的、属性魔力の影響を受けにくいの。火領の狩師たちが他領に呼ばれるときも、自分の馬に乗って行くわ。私の馬も初陣の時に、お父様から頂いたの」
「ういじん」
なんだか風領では聞きなれない言葉を聞いた気がする。
「ウィルと婚約する少し前のことよ。郊外の農村に火鼠が出て」
その説明には思い当たることがあった。
「確か、果樹園に行かれたんでしたっけ。収穫を荒らす魔獣が出たと」
「あら、前にも話していたかしら」
「姉様が初めて魔獣狩りに同行されたのが火鼠退治だったとうかがいましたが、その時から今の馬に?」
「ええそうよ。とは言っても、馬に乗っていたのは移動の間だけだけど」
「……魔獣退治の間にも馬に乗ることがあるんですか?」
風領では魔害駆除と言ったら街道の脇に根を張る魔木を引っこ抜くとか、水路に詰まる泥ガニを駆除するとか、なんというかあんまり絵がかっこよくない。
もちろんイワダキマツの根っこの絡まった岩を割って街道を整備したり、水場にわらわらとあふれる泥ガニを駆除して水場を使えるようにしてくれる風領の狩師には、尊敬と感謝を抱いているが。
「火領の狩師はやっぱりかっこいいですね」
「緊急時には現場への機動力も必要だからね。あとはやらかした時に一目散に逃げられるようによ」
「やらかした時」
お姫様にしてはずいぶんぞんざいな表現に思わずおうむ返しすれば、ヒルデガルドはくすくすと笑った。
「赤翅蜂っていう、火山の麓に大きな巣を作る蜂がいるの。結構遠くまで餌を探して飛んでくるから、人里までくる場合は駆除依頼が来るのだけどね」
ヒルデガルドが声をひそめる。
「思い切り、踏み抜いちゃったのよね」
「踏み抜いたって……蜂の巣を!?」
仰天して声を上げればヒルデガルドが肩をすくめる。
「教本では岩棚の影とか木の枝にぶら下がってるって教わったのに、まさか茂みの横に転がってるなんて」
「……どうなったんです」
「怒った蜂がブワーって出てきたわ」
「だ、大丈夫だったんですか!?」
「私も入れて三人の狩師隊だったんだけど、呆然としてたら隊長がいきなり私の馬を鞭で引っ叩いたの」
しがみつけ、と怒鳴られて、馬に振り落とされないように必死になったという。
「私を追いかけてきた蜂を、隊長が横合いから片っ端から焼き落としたのだけど……後からものすごく怒られたわ」
遊びじゃないんです、注意力散漫にも程がある、ご自身も隊も近隣の村も、危険にさらした自覚がおありですか……と。
「私がお説教をされている横で、もう一人の先輩狩師が淡々と私の踏んづけた巣を川につけてた。それで怒られて落ち込んでる私に、なんて言ったと思う? 囮、お疲れ様でした、ですって」
「……お怪我とかはありませんでしたか?」
「大丈夫だったけど、その後しばらくは現場に呼んでもらえずに、教本と座学ばっかりだったわ」
自領の姫に対してその対応。なんだか既視感がある。
「……風読みにも、怖い人がいます」
ヒルデガルドが瞬きをする。
「風読みって、騎乗大鷲の管理をする仕事だったかしら?」
「はい。……鷲が飛べるかを決めるのはお前じゃなくて風と鷲だって、セリウス……書記に怒鳴ってました」
「なるほど」
ヒルデガルドがうなずく。
「どこでもその道の人というのはいるのでしょうね。……ウィルは大鷲に乗ったの?」
一瞬なんと答えるか迷う。貴族の子供はフィルがセリウスと乗った鞍で二人乗りをするらしいが、ウィルフォードはどうなんだろう。
軽く目を伏せ、チラリと後ろを見た。シュナが首を横に振っているのが視線の端に映る。
「まだ、です。その、機会が来なくて」
「……そう」
そのまま口をつぐんでいれば、ヒルデガルドはそれ以上追求しては来なかった。助かったと思うと同時、気遣いを感じて少し申し訳なくなった。
◇◇◇
「ここです。ルッカはこの木に繋いでおけば大丈夫です」
ルッカがうずくまるのを待ってフィルはルッカから降りる。ヒルデガルドを振り向くと、前脚を折りたたんだルッカの上で、前につんのめりかけていた。
フィルは慌てて駆け寄る。ルッカはうずくまる時に前脚からたたむので、騎手は動きに合わせて重心を後ろに預けないと前に放り出される。初心者がよくやるやつだ。
騎乗ぶりが落ち着いていたので失念していた――と手を差し伸べたその先で、ヒルデガルドはひらりと両足ごとルッカの背を乗り越えて着地した。
「……」
「……」
ルッカの首の横に中途半端に腕を差し出した姿勢で見つめ合う。先に吹き出したのはヒルデガルドだった。
「ご、ごめんなさいね、でもありがとう、ウィル」
そう言って、ヒルデガルドは手をフィルの差し出していた手に乗せた。フィルより少し大きいその手は騎乗用の硬い革手袋に包まれている。もちろん良い品なのだろうが、ちゃんと使い込まれている様子を感じた。フィルもルッカに乗る時に布の手袋をしているが、子供用の柔らかいそれになんだか気後れを感じる。
「ウィルの手袋はルッカ向けなの?」
問われて、フィルはあわててうなずく。
「ルッカは岩場など高低差がある道を行きますから、手綱をしっかり握れて、でも感覚が鈍らないものを選ぶと教わりました。……その、まだ慣れていないんですけど」
「あらそうなの? ちゃんと乗れていたと思うわよ。背筋もしっかり伸びていた」
「背筋は気をつけるようにとよく言われます。馬に乗る時もですか?」
「ええ。背筋が丸まっていると重心がぶれて、馬の揺れに合わせにくくなるわ。ルッカはちょっと揺れ方が違う感じだけど」
「ルッカは前後に揺れますからね。もちろん姿勢はしっかり保つんですが、揺れに合わせて自分も重心を動かす感じがあります」
「足元が悪くてもスイスイ登っていくのはすごいと思ったわ」
「ルッカは魔力持ちですからね。足場を自分でならすんですよ。気が荒いやつだと周囲に小石を飛ばしたりします」
コホン、とシュナの咳払いが聞こえた。
「若様、お話もよろしいですが、先にヒルデガルド様をお席にご案内ください。今こちらに敷物を広げますから」
「……そうですね、ヒルデ姉様、こちらへ。食事にいたしましょう」
セリウスの助言には致命的な問題があった。ルッカのことを聞かれると、フィルはついしゃべりすぎてしまう。他に無難な話題はないのか、と考えながら顔を上げると、ヒルデガルドがなにやら企むような視線を向けていた。
「姉様?」
「『姉様』も親しみがあって良いけれど」
ヒルデガルドが小首を傾げる。
「ウィルは、お姉様と結婚するの?」
「……」
「二年前は、私もさほど気にしていなかったのだけど、そろそろ、ねえ」
「……あの」
「なにかしら?ウィル」
「ヒルデガルド、様」
「……」
無言の返事が、不正解、と告げていた。でもウィルフォードはそう呼んでたのだが。
どうすればいい?と脳内で思わず助けを求めた相手はアウローラだった。彼女は婚約者にどう呼ばれていたっけ……?
「ヒルデ?」
恐る恐る口に出す。ヒルデガルドは――ウィルフォードの政略結婚の相手は、それは嬉しそうに、綻ぶような笑顔を見せた。




