家族の食卓
翌日から始まったアウローラの「授業」はかなり本格的なものであった。
行儀作法はもちろんのこと、地理、法律、風領の貴族や火領の領主一族の家系図――領主一族の基礎知識にはここまでの水準が求められるのか、とフィルはため息をついた。まあ館に閉じこもっていろと言われるよりは忙しい方がいいが。
そんな風に思っていると、セリウスがエルンの来訪を告げた。
「先生! じゃなくて、エルン師……」
フィルに呼びかけられたエルンが苦笑する。
「アウローラ殿、この部屋ではフィルと呼んで構いませんか? ご家族の手紙も預かっていますし」
アウローラがうなずき、セリウスが廊下に向かって人払いを命じた。エルンが両親からの手紙をフィルに渡す。
「……」
手紙を早速開いたフィルは半目になった。
くれぐれも領主様やセリウス様に失礼のないように。うかつに高価そうなものに触らないように。何かあったら隠さず周囲に助けを求めること。大鷲に夢中になって仕事を疎かにすることのないように。領主様のお館なら珍しい食事が出るかもしれないが、がっつかないように。
ひたすらフィルを……というより、フィルの粗相を案じる母の字と、もし可能なら大鷲の羽を拾ってきて欲しいというシュルクの字と、頑張って稼いできなさいという姉のイルゼの字だ。
なんとなく拍子抜けした。
「フィルからの手紙はありますか?」
尋ねられて、用意していた手紙をいったんセリウスに渡す。文面を確認したセリウスが問題ありませんと封をして、それをエルンが大事に預かってくれた。
「何か気にかかることはありませんか?」
気遣わしげなエルンに、フィルは首を横に振って答える。
「家族がすごく心配してるんでなくて、よかったです。みんな元気ですか?」
聞いてから、まだ家を出たのは昨日のことだと気がついて苦笑する。
「私が行った時にはお元気なように見受けられました。イルゼさんも順調ですよ」
フィルはうなずく。
「なんか、兄さんが上級学校に行った時も、最初は落ち着かなかった気がします」
「そうかもしれませんね」
「フィルのお兄様は上級学校に進まれているの?」
アウローラが尋ねてくるが、すぐに気づいたように口を手で塞いだ。エルンがおっとりと受け流す。
「フィルのお兄さんは優秀で、上級学校の試験に一度で受かったのですよ。フィルの村からは何年振りだったでしょうね」
フィルは誇らしく胸を張った。
「学校に行ったら大鷲に乗るんだってずっと言ってましたからね。私が先に乗ったって言ったらどんな顔するかな」
「……フィル?」
「え」
エルンの心配気な声に、ハッと気づく。知らないうちに、頬が濡れていた。
「あれ、すみません、別になんともないんですが……」
袖で擦ろうとしてためらった。昨日選んでもらったこの服はウィルフォードのものだ。鼻水をつけるわけにはいかない。
スッとアウローラが進みでた。ハンカチで、目元を押さえられる。
「まさか、平民の方にはハンカチを持ち歩く習慣がないとは言わないでしょうね?」
どこか尖った口調は、昨日のような苛立ちではなく、動揺を押し隠すためのものだとなぜかわかった。
「どっちかと言うと手ぬぐいですが」
「今すぐハンカチを持ち歩く習慣をおつけなさい」
「綺麗な布って割とお高いんです」
「このハンカチは差し上げますから、ちゃんと持ち歩きなさい!」
ウィル様でいる時も忘れることのないように、との指導にフィルがうなずくのを見て、エルンが微笑む。
「アウローラ殿がいてくださってよかった。フィル、普段は手ぬぐいで構いませんから、ちゃんと持ち歩くように」
「わかりました」
その後、エルンは一通りアウローラの準備した資料や午前中の学習内容を確認していった。
「なるほど、素晴らしいと思います。フィル、この内容は上級学校に進んでも必要になるものですから、せっかくなのでちゃんと覚えてきなさい」
「ただで教えてもらえるなんて最高です。……本当に」
「アウローラ殿、お気づきかもしれませんが、フィルは算術の能力は高いですし、領内の地理も、特に水領方面に明るいです。法律も商いに関するものには詳しいので、フィルのやる気が落ちた時にはその辺りから話を広げるといいでしょう」
「……」
「あと、やはり座学が続くと集中力が落ちますから、ある程度の時間が経ったら休憩を挟んだり、時折体を動かすとよろしい。ルッカの乗り方などはフィルも興味があるのでは?」
フィルはがばりと顔を上げた。
「興味あります。ものすごく」
「館から街に降りるときなどはルッカを使うのでしょう? フィルは荷運びの経験はあっても、ルッカへの騎乗はあまり覚えがないでしょうから」
フィルはこくこくとうなずいた。ふむ、とセリウスがつぶやく。
「それはこちらで練習の手配をいたしましょう。風領の統承二位がルッカに乗れないのは困りますからね」
「騎乗用のズボンもいるかしら」
アウローラの言葉にフィルは目を剥いた。
「まだいるんですか!? てか普通のじゃダメなんです?」
セリウスが書き付けをしながら言う。
「練習用なら専用のものがあった方がいいと思いますよ。動きやすくて汚れてもよくて、股と膝の部分が丈夫になってるやつです」
「……お願いします」
アウローラがにっこりと笑った。
「上手に乗れるようになったらちゃんとした騎乗用ズボンも作りましょうね」
結局作るのか、とフィルは遠い目になった。エルンがそんなフィルたちのやりとりを見て微笑んでいた。
◇◇◇
身代わりの教育が始まってから、ヴァレリスとファビアンも、できるだけ食事を一緒に取ろうとしてくれているらしい。
もちろん食事の所作の実践や確認という面はあるのだろうが、忙しい中でおそらくフィルに対する気遣いの面もあるのだろう。
その日、豪華な絨毯に敷かれた敷物の上には、土領のパンとフィルも見慣れた平焼きパン、チーズ、何か詰め物をしているらしい鶏肉の皿が並んでいた。思わず目を輝かせたフィルは、ハッと気づいてアウローラを見る。
「……別に今さら緊張感とは申しませんが。ただ、ウィルフォード様らしくはありませんね」
「そこは無理に雰囲気まで真似しようとしなくても良いのではないかな。もちろんある程度の作法は覚えたほうがいいと思うけど」
「ヒルデガルド殿の歓迎の宴を乗り切れば、あとはなんとかなるとは思うのですよね。多少礼儀作法が崩れていても、年齢からすればそう目立つことでもないでしょうし」
「確かに、作法を気にしておどおどするよりも、自然体で大らかに過ごすほうがそれらしいかもしれんな」
フィルも交えて和やかに会話をしながらの食事にも慣れてきた。ただ、ウィルフォードの代わりとして家族のいる場所に居座っていることに、時々奇妙な感覚に襲われる。
ふと、気になっていたことを尋ねた。
「レイネシア様はこちらでお召し上がりにはならないんですか?」
セイレアがにこりと笑った。
「ウィル殿、母上と。……体調のよい時はお見えになることもありますよ。ただ、ウィルフォード殿の病の後は、めっきり雲雀に篭りがちですが」
ファビアンが笑った。
「私や父が、雲雀でウィルやレイネシア殿と食事することもあるよ。ウィルの勉強を見るように頼まれることもあったし」
「ええと、『僕』と兄上は仲のよい兄弟でしょうか」
「私は、そう思っているよ」
「……」
父である領主や兄の思いやり。領主夫人の気遣い。そして婚約者との関係を壊すための自分を、ウィルやその母はどう思っているのだろう。「家族」の気遣いに触れるにつれ、どこか後ろめたいような気持ちが深まる。
エルンが次に来るのはいつだったっけ。不意にカルデンの家族が恋しくなった。紛らわすように、パンを手に取って口に放り込んだ。
「ウィル様、頬張りすぎないように。一口ずつにちぎってください」
途端にアウローラから指摘が飛んで、フィルは苦笑して肩をすくめた。




