教育係との出会い
「では、さっそく」
セリウスが机に向かい、サラサラと何かを書いていく。
「支払う報酬について、ひとまず誓約書にいたしました。こちらの内容でよろしければ、明日までに正式な契約書も作成しておきます。フィルさんが進学される際に有効になる奨学金認定も合わせて発行します」
エルンと共に誓約書を確認し、この後フィルの家に向かうというエルンにいったん預ける。
「それではフィル……いや、ウィルフォード、今後の教育について、第一夫人のセイレアと、ウィルの兄の婚約者であるアウローラから説明を聞いてもらいたい」
ヴァレリスの言葉にセリウスがうなずいて部屋を出る。
「エルン師はグラスリーにお戻りになりますか」
「そのつもりですが、夫人とアウローラ殿はフィルの教師役なのでしょうか。それでしたら、今一緒にご挨拶させていただいても? フィルの様子を見にくる際に、お会いすることになるかと思いますので」
「そうですな、面会人ということで顔合わせしていただいたほうが良いでしょう」
「館内では、私もウィル殿とお呼びすればよろしいでしょうか」
「ええ。フィルの出自を知らされておらぬ者に対しては、ウィルの状態について助言を頂く……新しい天の医師殿と説明しておきましょう」
「私から医師と名乗ることはしませんが、そのような説明をされるということは承知いたしました」
エルンの返事にヴァレリスが苦笑する。
「ややこしい状況に巻き込んで申し訳ない」
「いえ、こちらから首を突っ込んだことですので」
「……あの」
フィルはそっと口を開いた。
「どうした、ウィル」
さっそくウィル、と呼ばれるのに少し緊張を覚える。
「セイレア様は、第一夫人でいらっしゃるということですが、私……というか、ウィルフォード様としてはどうお呼びすれば……」
「領主の子から、自分の母以外の領主夫人への呼びかけなので、セイレア殿と呼べば礼儀にはかなう。ただ年齢差もあるので、セイレア様と呼ぶのが通常だな。その辺りも含め、二人から学んでほしい。言葉遣いにはやはり普段の生活が出るものだしな」
「フィルの言葉遣いは、領主館の者としてはどうですか?」
エルンの問いに、ヴァレリスが苦笑顔になる。
「最初懸念していたより、言葉遣いはきれいだと思う。ただ、ウィルとして考えるとまだ違和感があるな。そうだな、自分のことは『僕』でよい。他領に対する言葉遣いとしては少々幼いが、病弱で押し通すならそれでよかろう」
僕、とうなずいたところで、フィルはハッと気づく。
「あの、セリウス様に対しては……」
「呼び捨てでよい」
そりゃそうなるよな、とフィルは思った。これはなかなか慣れるのに時間がかかりそうである。
そのとき、戸の外から声がかかった。
「セリウスです。セイレア様とアウローラ殿をお連れしました」
「入れ」
ヴァレリスが許可を出すと、扉がゆっくりと開いて、中年の女性……お顔も体型もなかなかふくよかな方と、その背後に続いて先ほど食事を持ってきてくれた少女が入ってきた。
「妻……第一夫人のセイレアと、長子の婚約者、アウローラ=グラスリーだ」
セイレア夫人はフィルに向けてにっこりと笑った。威厳があるというよりは優しそうで、けれどしっかり地に足のついた雰囲気の女性だった。
「わたくしがセイレアです。この度は領主の無理を聞いていただきまして、ありがとうございます。……天のお方にも、お手数をおかけしますようで」
そう言って頭を下げる彼女にフィルはあわてた。
「あ、えっと、私、じゃない僕は」
セイレアがくすりと笑う。
「大丈夫よ、落ち着いて。……お名前は、聞いてもよいのかしら」
最後の言葉はヴァレリスに向けてだ。ヴァレリスは少し迷うように視線を巡らしてから、うなずいた。
「フィルだ。名以外の、出身などは伏せさせてくれ」
「あら、ウィル殿と響きが似ているのね。ちょうどよかった……と言ってもいいのかしら。では、この部屋を出るまではフィルとお呼びするわね」
「はい」
まだ「フィル」でいていいと言われて、少しホッとする。そんなフィルを、もう一人の少女、アウローラがじっと見つめていた。視線が合うと、彼女は切り口上で告げてきた。
「アウローラです。ファビアン様の婚約者です。あなたにウィルフォード様としての振る舞いを教えるよう依頼されています」
「あ、よろしくお願いします。……先ほどは、失礼しました」
なんとなく、最後にそう付け加えた。アウローラは眉をぴくりと動かしたがそれ以上なにも言ってはこなかった。セイレアがふふ、と笑う。
「フィルさんは土領のパンがお気に召して? 最近うちでも作るようになったのだけど、まだ料理人が試行錯誤しているのよ。色々感想を聞かせてくれると嬉しいわ」
「はい……」
パンが美味しかったのは本当だが、あの場にいなかったセイレアがそれを知っているというのは、フィルが三つ目に手を伸ばしたことまで誰かが報告したのだろうか。フィルはアウローラと、それからセリウスをちらりと見る。
「第一夫人と、それから次代の領主夫人にご挨拶いたします。天の領から風領に派遣されております、エルンと申します。――具体的な赴任地は伏せたほうがよろしいですね。フィルの両親からこの件に関してフィルの後見を依頼されております。フィルがお世話になる間、館に出入りさせていただきますので、ご承知おきいただければと」
セイレアがエルンに対して優雅に礼を取った。
「承知いたしました。領の厄介ごとに天のお方のお手を煩わすこと、大変恐縮でございますが、何とぞ風領と風の民のためにお力添えをいただきたく、お願い申し上げます」
「よろしくお願い申し上げます」
セイレアに続いてアウローラもエルンに向かって頭を下げた。
この部屋に入った時にも感じた違和感が蘇る。この館に来てからは、エルンは領主様と同じかそれ以上に尊い方のように扱われている気がする。
天のお方、という恭しくも距離を保った呼びかけは、なんとなくフィルを不安にさせた。
フィルにとって、エルンは優しく頼りになる先生で、その知識や人間性を尊敬していたが、同時に少々どんくさい所がある人だと思っていた。
風領の交通について現地で授業をしようとルッカの駅にみんなを連れて行ったときのことである。
ルッカの路線図と風領の地図を重ねて子どもたちに熱心に説明していたエルンの髪は、柵の隙間から首を伸ばしたルッカに毛先の方をむしゃむしゃ食べられていた。
あまりの光景に生徒どころか駅の役人も誰も指摘できず、駅には楽しげにルッカの交通の仕組みについて語るエルンの声だけが響いていた。
――髪。
エルンの薄い金色の髪は、フィルたち風の民とどこか似ている。集団の中にあってもそれほど浮かないと思っていたが、領主様たちには特別な色に見えているのだろうか。
ヴァレリスもセイレアもアウローラも、他の色味の混じらない純銀の髪をしている。風の属性が強いのだろう。セリウスの髪も銀だが、やや緑を帯びている気がするから血筋に土領の者がいるのかもしれない。
そういえば水領の出身というレイネシアの髪は青いのだろうが……とそこまで考えて気がついた。そして、まさにフィルの気づいた内容について、エルンが口にする。
「ウィルフォード殿とレイネシア殿には、ご挨拶できるのでしょうか?」




