32話 顔合わせ 1
目が覚めるとアザレアさんの寝顔が前にあった。
いい夢を見ているようで、頬をほころばせては何かを呟くように口を動かしている。
少し様子を眺めていると、それもなくなり落ち着いた眠りに変わっていく。
指先を軽くつまんでみるもこれといった反応はないので、起き上がっても起こしてしまう心配はなさそうだ。
後ろから聞こえてくる寝息はノクサラさんのものだろう。上半身をねじって後ろを確認してみると、こちらも穏やかな表情で眠りに就いている。
私は、お二人を起こさないようにベッドを離れ、服を着替えてから部屋を後にする。
まずは厨房の清掃からだ。
深夜に食事をした人がいたらしく、いくつか食器が水に浸してある。
それらを綺麗に洗い、厨房全体を清掃していく。
宿泊を割り引いてもらっているお礼という意味で始めたことだが、気がつけば毎日の習慣となっていた。
厨房が綺麗に整っているなら、害虫やネズミが湧くこともないだろうから、いいこと尽くめだ。
清掃を終えると、早めに起床する方々が姿を見せ始め、私は簡単な挨拶をしてから、日課のランニングに向かう。
―――
私たちの住むキュクロリムニ区には、湖の周りを囲む自然公園がある。
ここはヒッポフォロスのランニングスポットとなっており、すれ違った人と挨拶を交わしたり、場合によっては雑談をしたりもする。
「おはようございます、ホタビノ卿」
「おはようございます。あー、女将さんの」
「父です」
仰々しい呼び名で私に声をかけてきたのは、女将さんのお父さん。
分娩の際に知り合い、雑談がてら簡単な遍歴を話したところ、『ホタビノ卿』と呼ばれるようになってしまった。
普通に呼んでもらおうとしたのだが、残念ながら結果はご覧のとおりだ。
「普段から娘夫婦に気をかけていただき、ありがとうございます」
「いえいえ、宿泊費を安くしてもらっているので当然のことですよ」
「そんなことはありません。慣れというのは怖いもので、与えられることや、親切にされることにすら慣れてしまうことがある。ホタビノ卿は幼くして神官を務めたこともあってか、しっかりしてらっしゃる」
「いやぁ、言い過ぎですってぇ」
褒めてもらえるのは嬉しいが、ちょびっと恥ずかしい。
ただ、彼の言葉は胸に留めておきたいと思った。
「ホタビノ卿は、パラデイソポリスの永住権や市民権を申請するご予定はあるのですか?」
「そうですねー…年ごとの申請が楽になる永住権はちょっと興味があります」
「ほう。市民権に関しては、信仰上の都合でしょうか?」
「そうなります」
「ふむ。実は私、役所で働いておりまして、申請書類の書き方、申請の仕方など、アドバイスできることは多くあります。もし必要でしたら、お声掛けください。娘と孫娘のために尽力してくれているホタビノ卿には、できる限りの協力をいたしますので」
「ありがとうございます。時期を見てお尋ねしますね」
「ええ、いつでもお待ちしています」
そんなことを話していると、女将さんのお父さんは少しそわそわとしだす。
「異なる信仰のホタビノ卿に、こういったことを尋ねるのは失礼になるのかもしれませんが、メイゼン国では赤子の健康を神に祈ったりということはあるのでしょうか?」
「あまりそういうのはありませんね。一定の年齢に達したら、お祝いをしたりはありますよ」
「そうでしたか。どこかの種族は、出産と同時に神へ赤子の姿を見せつけ、健康と成長の祈りを捧げると聞きましてね。…初孫ですから、ついつい心配になってしまうのですよ、ははは…」
赤子というのは不安定だ。
彼はマルグリットちゃんが無事に成長できることを、心の底から望んでおり、藁にもすがる気持ちで尋ねてくれたのだろう。
「ただ一人のエラフォロスとして、ジェルブ・ドールの宿泊客の恋白としてなら、マルグリットちゃんの無事を願うことはできますけど、どうでしょう?」
「ありがとうございます、ホタビノ卿…いえ、ホタビノさん」
明蝉国の地を離れている私だが、この願いは麗天様に届くのだろうか。
―――
私がジェルブ・ドールに戻り、シャワーを浴び終えると、ノクサラさんとアザレアさんが朝食をとっていた。
「おはようございますっ」
「おう、おはよう」
「おはようございます、コハクさん」
「今日も走ってきたのか?」
「はい、悪天候でなければ毎日走ってますよ」
「アタシも今度、一緒に走ってみようかな」
「起きられるんですか?」
「舐めすぎだろ…」
「ふふっ、冗談ですよ、冗談」
トレーニングの話をしていると、アザレアさんは自身のお腹に手を当てて、口先を尖らせる。
「わたしにもできるトレーニングってありますか?」
「なんだ、太ったのか?」
「ふとォっ!?太ってなんかいませんよ!今後、恥ずかしい体型にならないよう、予防したいと思っているだけです」
「でもルーシッド・エデンで活動しているなら、問題ないとは思うんですけど、どうなんですか?」
「アザレアは動き回るわけじゃないし、武器を振り回したりもしないからな」
「足の筋肉はある気がするのですが、それ以外がどうも不安で…」
「毎日できることやるってやつですねっ!」
「一人だとついつい怠けてしまうといいますか、長続きしないのですよ。恥ずかしい限りです」
三人で雑談をしていると、フロランさんが私たちの許までやってきた。
「歓談中すまない。簡単な用件があってね」
「はい、なんですか?」
「エキシビションマッチについてのことだ。先日、コハクさんから参加の意思を受け取り、今後の予定などを話し合っていきたいと考えている。差し当たって急ではあるが、今晩に食事を交えながら、話し合いをできないだろうか?」
「私は問題ありませんよ。ジェルブ・ドールに宿泊しているんで」
「コハクの部屋に泊まるし、アタシも問題ない」
「同じくです」
「ありがとう」
フロランさんは、柔和なほほ笑みを浮かべて頭を下げる。
「けど急ですね。なにかご都合とかがあるんですか?」
「実は、五つ目のパーティから色よい返事をもらえたのが一昨日で、出産のあれこれと被ってしまって、伝え忘れてしまった次第だ。申し訳ない」
「いえいえ、頭を上げてください」
「五パーティ対五パーティだったか」
「そうだ。彼女たちは二人組のパーティだから、五パーティの合計で二〇人と、一パーティ分の人数が欠けることになるが、変にパーティを混ぜない方が動きやすいと思い、このまま挑むことにした」
シュトラーレンゾンネは大手クランだ。
こういった催しなら精鋭が出てくると思う。
人手が足りないのは確実に不利だろうけど、ヴァン・フェールの方々が決めたことだ。できる範囲で頑張ろう。
「わかりました。それでは今晩ですね」
「ああ、時間の指定はないから、焦らずに帰ってきてくれ」
「はいっ」
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