兄を殺したのは俺だ
その資料は、宮廷書庫の奥深くに眠っていたものだった。古い反逆罪の記録を整理していた文官が、偶然見つけ出したという。もともとは、別件の調査のついでに紛れ込んだ書類だったらしい。
俺のもとに届いたその写しに目を通した瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。五年前、反逆罪で処刑されたひとりの騎士――ケインの兄、アレク・レーヴェンハルトに関する記録だった。
当時の証言記録には、不自然な点が複数あった。密告者の証言は曖昧で、物的証拠と呼べるものはほとんどない。今読み返せば、誰の目にも冤罪だとわかるような、粗雑な裁きだった。当時の宮廷は、疑わしきは罰する、という空気に支配されていた。誰かを疑うことでしか、自分の身の安全を確保できない時代だった。
当時、俺はまだ前世の記憶を持たない、ただの暴君だった。誰かを疑い、誰かを罰することでしか、自分の立場を保てなかった。アレクの処刑も、その延長線上にあったはずだ。詳しい経緯までは、正直なところ、俺自身の記憶にも定かではなかった。あの頃の俺にとって、処刑の裁可を下すことは、日常の一部でしかなかったのだと思う。
だが記録は、はっきりとそこにあった。最終的な処刑の裁可を下したのは、他でもない俺自身だった。書類の末尾に押された印章が、それを何よりも雄弁に物語っていた。
*
その資料の存在を、俺より先に知ったのはケインだった。文官の一人が、良かれと思って彼に伝えてしまったらしい。
執務室に現れたケインの顔は、これまで見たどんな表情とも違っていた。怒りでも、悲しみでもない。もっと深く、静かな何かだった。
「陛下」
「……読んだのか」
「はい」
短いやり取りの後、沈黙が落ちた。俺は何を言うべきか、言葉を探した。だが、どんな言葉も、この状況にはふさわしくない気がした。
「兄は、無実だったのですか」
「……その可能性が高い」
「可能性、ではなく」
ケインの声が、低く、鋭くなった。
「陛下は、当時の裁可を下した本人のはずです。真実を、ご存知のはずだ」
俺は答えられなかった。五年前の記憶は、今の俺にとって、他人の人生のように遠い。だが、それを言い訳にするつもりはなかった。
「兄を、返せますか」
その問いに、俺は言葉を失った。
「返せるなら、どんな手段でも構いません。領地でも、地位でも、命令でも構わない。兄を返してください」
「……それは、できない」
「そうでしょうね」
ケインの声には、もう怒りすら残っていなかった。ただ、乾いた静けさだけがあった。
「では、せめて教えてください。なぜ、兄は処刑されたのですか。陛下は、本当に真実を知らなかったのですか。それとも――」
「知っていた」
俺はその言葉を、自分でも驚くほど平坦な声で口にした。
「詳細までは覚えていない。だが、疑わしい証言だけで人を裁くことに、何の躊躇もなかった時期があった。お前の兄も、その一人だったはずだ」
ケインの拳が、微かに震えていた。
「つまり」
「……殺したのは俺だ」
その一言を口にした瞬間、執務室の空気が、完全に凍りついた。
ケインは、しばらく何も言わなかった。ただ、俺をまっすぐに見つめていた。その目には、憎しみとも、絶望ともつかない、深い何かが揺れていた。
「詫びるつもりはない」
俺は続けた。
「詫びて許されることではない。詫びれば、俺の罪が軽くなるわけでもない。だから、詫びない」
「……それが、陛下なりの誠実さだとでも言うのですか」
「そうは言わない。ただ、事実だけを話した」
「兄は、最後まで陛下に忠誠を誓っていました。それでも、疑わしいというだけの理由で殺されたのですか」
「そうだ」
「その言葉一つで、人の人生が終わったということを、陛下は理解しているのですか」
「理解している」
「理解していて、なお、その立場に居座り続けるのですか」
「居座る。それ以外に、今の俺にできることはない」
ケインは長い沈黙の後、静かに背を向けた。
「失礼します」
それだけ言って、ケインは執務室を出て行った。振り返ることはなかった。扉が閉まる音が、いつもよりずっと重く響いた。
一人残った俺は、資料の写しを手に取ったまま、動けずにいた。これまでの嘘や沈黙とは違う。今回だけは、誤魔化しようのない、俺自身の過去の罪だった。
暴君であり続けることを選んだのは、他ならぬ俺自身の意志だ。だが、その選択の裏で、こうして誰かの人生を、取り返しのつかない形で壊してきたのだという事実から、俺は目を逸らし続けてきたのかもしれない。前世の記憶を得てから、ケインを守ることばかりを考えていた。だが、守る以前に、俺はすでに、この男から大切なものを奪っていた。
赦されるとは思っていない。赦されるべきだとも思わない。それでも、この事実を告げたことだけは、間違いではなかったと、そう信じるしかなかった。
窓の外はすでに暗く、宮殿の灯りだけが静かに揺れていた。俺はその夜、一睡もできなかった。




