起こらなかった誘拐
深夜、屋敷の警備担当から緊急の報せが届いた。俺は寝台を離れ、寝間着のまま報告書に目を通した。
レーヴェンハルト家の裏門付近で、複数の賊が侵入を試みたという。狙いは、末の妹だった。夜更けに裏庭へ出た隙を突かれ、賊は一気に距離を詰めたらしい。だが配置していた近衛の精鋭が即座に応戦し、賊は取り逃がしたものの、屋敷の中には一歩も踏み込ませなかった。
原作の記憶にあった通りの出来事だった。だが、結末だけは違う。原作では、この夜、妹は攫われ、それを取り戻すための交渉が、後の展開を大きく狂わせていく。だが今夜、誰も傷つかなかった。誰も、奪われなかった。
俺は報告書を握りしめたまま、しばらく動けなかった。もし監視の名目で兵を配置していなければ、もし練度の低い者たちを選んでいれば――そこから先は、考えたくもなかった。
窓の外はまだ暗い。俺はそのまま寝台に戻ることもできず、夜明けまで報告書を読み返し続けた。賊の人数、装備、逃走経路――記録された一つひとつの情報が、原作の記憶とどこまで一致し、どこから逸れているのかを、何度も確かめずにはいられなかった。
夜が白み始める頃、俺はようやく報告書を文机に置いた。今夜は守り切った。だが、これで終わりではない。原作にない出来事が起き始めている以上、この先も、こうした予測できない危機が続くはずだった。
*
翌朝、執務室に現れたケインの顔は、これまで見たどんな表情とも違っていた。怒りでも、諦めでもない。もっと根の深い何かが、そこにはあった。
「昨夜、妹の屋敷が襲われました」
「聞いている」
「監視の兵が、賊を撃退したそうです」
「そうか」
俺はそれだけ答えた。だがケインは、そこで話を終わらせなかった。
「妹から聞きました。賊は複数人で、明らかに手練れだったと。それを、たった数名の"監視役"が一方的に叩き伏せたと」
「……」
「陛下」
ケインの声が、微かに震えていた。
「あれは、監視などではありませんでしたね。近衛の中でも最も練度の高い者たちだったと、後で聞きました。単なる見張りに、そんな人選をする理由がありません」
俺は答えなかった。答える必要はない、といつものように自分に言い聞かせようとした。だが、今回ばかりは、その言葉が空虚に響いた。
「人質の見張りだと、私はずっとそう思っていました。ですが違った。あれは、護衛だった」
ケインは一歩、俺に近づいた。三歩の距離は、もうそこにはなかった。
「領地の件も、監視の件も、すべて同じだったのですね。奪っているように見せて、実際には――」
そこまで言って、ケインは言葉を止めた。まるで、続きを口にすることを、自分自身が恐れているようだった。
「なぜ、黙っていたのですか」
「話しても、信じなかっただろう」
「今なら、信じます」
その一言に、俺は思わずケインを見た。真っ直ぐな目が、俺を捉えていた。これまでの反発や皮肉とは、明らかに違う色をしていた。
「では聞きます。陛下は、なぜ妹が狙われると分かったのですか」
俺は言葉に詰まった。ここで答えれば、原作の記憶にまで踏み込むことになる。まだ、その一線は越えられない。
「答えられない」
「……また、それですか」
ケインの声に、失望がわずかに滲んだ。だが、その失望は、以前のものとは質が違っていた。怒りではなく、もどかしさに近いものだった。
「いつか、話してくださる日は来るのですか」
「わからない」
正直な答えだった。ケインはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかりました。今はそれで構いません。ですが、いつかは聞かせていただきます」
そう言って、ケインは深く頭を下げた。これまでのような形式的な礼ではなかった。もっと違う何かが、そこには込められていた。
「……妹に、代わって礼を言わせてください。ありがとうございました」
「礼を言われる筋合いはない」
「それでも、言わせてください」
執務室を出ていくケインの背中を、俺はしばらく見送った。信じられ始めているのか、それとも、まだ様子を見られているだけなのか、俺自身にも判別がつかなかった。
その日の昼、廊下でダレンとすれ違った。彼は俺に気づくと、いつものような皮肉を口にする代わりに、ただ小さく頭を下げただけだった。何も言わなかったが、その態度には、以前とは違う何かが滲んでいた。
ただひとつ確かなのは、あの日、玉座から「今日からお前は、俺のものだ」と告げた時とは、二人の間の何かが、確実に変わり始めているということだった。理解にはまだ遠い。信頼と呼ぶには、まだ早すぎる。それでも、確かに何かが動き出していた。




