暴君の寝室
その夜の晩餐で口にした葡萄酒に、何かが仕込まれていたらしい。異変に気づいたのは、部屋に戻ってからだった。喉の奥が焼けるように熱く、視界が急速に歪んでいく。
「……陛下?」
三歩の距離で控えていたケインの声が、やけに遠く聞こえた。膝から力が抜け、床に倒れ込む寸前、誰かの腕がそれを支えたのを、かろうじて覚えている。
「誰か! 医官を呼べ!」
ケインの叫び声が、廊下に響き渡ったのを、意識の端で聞いた気がする。運ばれる感覚、誰かが何度も名前ではなく「陛下」と呼びかける声、慌ただしい足音。そこから先の記憶は、ひどく曖昧だった。
*
熱に浮かされた意識の中で、時折、断片的な光景だけが浮かんでは消えた。
冷たい布が額に当てられる感触。誰かが低い声で医官に何かを指示している。喉に流し込まれる、苦い水薬の味。
「……大丈夫だ。俺がついている」
聞き覚えのある声だった。だが、それが誰のものなのか、熱に浮かされた頭では、うまく判別できなかった。
意識は何度も途切れ、そのたびに違う時間の中に投げ出された。ある時は宮殿の寝室にいたはずが、次の瞬間には、幼い頃の記憶の中にいた。
冷たい石造りの部屋。窓から差し込む弱い光。震える手で差し出された杯。
「これを飲めば、良くなりますから」
優しい声だった。だが、その声の主が誰だったのか、今の俺にはもう思い出せない。ただ、その杯を飲み干した後、母は二度と目を覚まさなかった。幼い俺は、その光景を、ただ黙って見ていることしかできなかった。
「……母上」
自分の声が、遠くから聞こえた気がした。
「……飲みたくない」
誰かが、俺の手を握った気がした。冷たく、強張ったその手を、誰かがそっと開かせようとしていた。その手のひらの温かさだけが、やけに鮮明に残っている。
*
目が覚めた時、窓の外はすでに明るかった。俺は寝台の上で、自分がどれだけの時間眠っていたのか、すぐには把握できなかった。
視線を巡らせると、寝台の脇の椅子に、ケインが座っていた。目の下に濃い隈があり、着替える暇もなかったのか、昨夜と同じ服装のままだった。
「……気がつかれましたか」
「お前が、ここに」
「はい。あの後、三日間、陛下は高熱にうなされていました」
三日間。その言葉に、俺はようやく事態の深刻さを理解した。
「他の誰かに任せることもできたはずだ」
「陛下の身の回りに、信用できる者は限られています。それに」
ケインは、そこで言葉を切った。
「それに、何だ」
「……いえ、何でもありません」
俺はそれ以上、追及しなかった。ただ、この男がここに三日間もいたという事実だけが、重く胸に残った。
「医官の話では、量さえ間違えれば、命に関わる毒だったそうです。誰が盛ったのか、まだわかっていません」
「調べは進めているのか」
「はい。ですが、まずは陛下の回復が先だと判断しました」
ケインの声には、淡々とした事務的な響きがあった。だが、その裏に何か別の感情が滲んでいることに、俺は気づかないふりをした。
「陛下は、うわ言を仰っていました」
ケインの声が、静かに続いた。
「母上、と。それから、飲みたくない、と」
俺は何も言えなかった。あの記憶の断片が、うわ言として漏れていたことに、今更ながら気づかされる。
「詳しくは、聞きません」
ケインは、それだけ言った。
「ですが、陛下にも、恐ろしいと思うものがあるのだと、初めて知りました」
その言葉には、同情も、赦しの色もなかった。ただ、事実を受け止めただけの、静かな声だった。
「理解したところで、兄のことを忘れたわけではありません。それとこれとは、別の話です」
「わかっている」
俺はそれだけ答えた。ケインは小さく頷き、それ以上は何も言わずに、水差しから新しい水を注いだ。
理解と赦しは、別のものだと、この男は明確に線を引いていた。それでいい、と俺は思う。安易な赦しよりも、その正直さの方が、今の俺には必要だった。
水を受け取りながら、俺はふと、この三日間、この男がずっとここに留まっていた理由を考えた。命じたわけではない。それどころか、兄の一件以来、二人の間には、まだ埋まらない溝があったはずだった。それでも、ケインはここにいた。理由を問うことは、今はまだできそうになかった。ただ、その事実だけを、静かに受け止めるしかなかった。




