奪われた領地
その日の謁見は、事前に何の前触れもなかった。宮廷はここ最近の皇帝の変化に、まだ完全には慣れていない。財産没収も、税の返還も、孤児院への予算も、暴君らしからぬ結果ばかりが続いていた。誰もが、次は何が起きるのかと、半ば期待さえしていた空気があった。
俺はいつも通り玉座に着き、文官たちの報告を聞き流しながら、頃合いを見て一枚の書状を取り出した。今日の議題は、これまでとは違う。今度こそ、誰の目にも紛れもない暴挙として映るはずだった。
「レーヴェンハルト家の領地を、本日をもって没収する」
玉座の間に、明確な動揺が走った。俺の後ろに控えていたケインの気配が、はっきりと強張るのがわかった。
「……陛下。今、何と仰いましたか」
「聞こえなかったか。お前の一族の領地を、国庫に接収する」
ケインが一歩前に出た。普段は保っている三歩の距離すら忘れているようだった。
「理由をお聞かせください」
「必要ない」
「必要ない、では済みません。あの土地は、私の家が三代にわたって守ってきた土地です」
「わかっている」
「わかっていて、奪うと仰るのですか」
俺は書状を文官に手渡し、次の指示を淡々と続けた。
「レーヴェンハルト家の者は、全員、皇都へ移住させる。屋敷は用意する。三日以内に発たせろ」
「……家族まで、ですか」
ケインの声が、初めて明確に震えた。
「妹も、両親も。全員だ」
謁見の間の空気が、凍りついたように静まり返った。誰もが、これまでで最も苛烈な処分だと感じているはずだった。処刑を止め、財産を返させ、孤児院に予算をつけた皇帝が、今度は忠実な部下の一族から土地を奪う。誰の目にも、その一貫性のなさは異様に映っただろう。
「……まだ、奪うものが足りないのですか」
低く、絞り出すような声だった。俺はそれに答えず、次の案件へと移ろうとした。
「陛下!」
ケインの声が、玉座の間に響いた。衛兵が身構えるほどの声量だった。
「地位を奪い、自由を奪い、今度は先祖代々の土地まで奪う。私に何をさせたいのですか。いったい、何が目的なのですか」
「お前の目的を満たすためではない」
「では誰のためです」
「この国のためだ」
「この国、この国と、陛下はいつもそう仰る。ですが実際にこの国のためになっているのは、いったい誰なのですか。奪われるのはいつも、私や、私の周りの人間ばかりだ」
「文句があるなら聞くが、決定は覆らない」
「文句を聞く耳など、陛下にはないはずです」
その答えに、ケインは一瞬、言葉を失ったようだった。だがすぐに、皮肉のこもった笑みを浮かべた。
「国のため、ですか。都合のいい言葉です。陛下が何をしても、その一言があれば正当化できる」
俺は何も返さなかった。反論すれば、この場で真意に近づきすぎてしまう。今はまだ、何も明かせない。この土地が、数か月後に反乱軍の拠点として利用され、一族もろとも反逆者として処罰される――その未来を、俺はまだ誰にも語れなかった。
「今日限り、私はもう陛下を信用しません」
その一言を残し、ケインは踵を返し、謁見の間を出て行った。追う衛兵を、俺は手で制した。
*
その夜、ケインの宿所の前に、見知らぬ男が訪れていた。粗野な物言いと、隠しきれない苛立ちを纏った男だった。かつてケインが率いていた部隊の元部下、ダレンだった。
「団長、聞きましたよ。とんでもねえ話じゃないですか」
「……ダレン。よく、ここに来られたな」
「見張りの連中も、俺くらいなら顔パスですよ。それより団長、本当に大丈夫なんですか」
ダレンは苛立ちを隠さず、部屋の中を歩き回った。
「陛下を信じるくらいなら、竜の卵を温める方がまだ現実的です。あの人は、団長から奪うことしか考えていない。地位を奪い、自由を奪い、今度は先祖代々の土地まで。次は何を奪うつもりなんです」
ケインは何も答えなかった。ただ、窓の外を見つめている。ダレンはその横顔に、これまで見たことのない疲労を見て取った。
「団長さえよければ、俺はいつでも力になります。あんな皇帝に付き従う理由なんて、もうないでしょう」
「……そうだな」
ケインの返事は、力なく短かった。だがその声には、まだ完全には消えていない何かが残っている気がした。ダレンにはそれが読み取れず、ただ黙って隣に座り続けた。
「団長がそう言うなら、俺はもう何も言いません。ただ、いつでも呼んでください。今度こそ、団長の味方をします」
ケインは小さく頷いただけだった。その沈黙の意味を、ダレンはまだ読み解けずにいた。
*
謁見の間に一人残った俺は、書状の控えを手に取ったまま、しばらく動けずにいた。ケインの目に浮かんでいた失望を、俺は忘れられそうになかった。
暴君であることを貫くと決めたはずだった。理解されなくてもいいと、自分に言い聞かせてきたはずだった。それでも、今日この瞬間だけは、胸の奥に鈍い痛みが走った。
あの土地を今のうちに切り離しておかなければならない、明確な理由が俺にはあった。だが、それを今この場で語ることはできない。語れば、まだ起きてもいない未来を、俺自身の口から証明することになる。誰にも信じてもらえないまま、ただ疑われ続けるしかなかった。
「今日限り、私はもう陛下を信用しません」――その声が、何度も耳の奥で繰り返された。それでいい、と俺は自分に言い聞かせる。信用されなくても、生きていてくれさえすれば、それでいい。
だが、これでいい。この痛みごと飲み込まなければ、この先、あの男の命そのものを守ることはできない。
俺は静かに立ち上がり、次の指示を出すため、執務室へと向かった。




